エドワード・ヤン Edward Yang

坂本龍一の本棚から|変貌する台湾を見つめた映画監督「エドワード・ヤン」

1982年、台湾がまだ軍事独裁政権下のなか、エドワード・ヤン、タオ・ドゥーツェン、クー・イーチェン、チャン・イーの競作映画『光陰的故事』が公開され、「台湾ニューシネマ」が始まった。
37年ぶりに台湾の戒厳令が解除されたのが1987年。
その5年前に台湾の新しい映画の潮流が生まれたことになる。
台湾だけでなく、世界は大きく動いていた。
同年、韓国は民主化し、その数年後にはベルリンの壁、そしてソ連が崩壊していく。
それまで大陸との緊張という体制が支配していた台湾社会も、冷戦の終わりによって、資本主義経済の流入の速度が大きく上がった。

1991年、ヤンが『嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』を発表する。
過去の台湾社会を振り返ること、アイデンティティを問うこと、それは国民党支配時代にはできなかったことだ。
『嶺街少年殺人事件』にこの時代を象徴するようなシーンがある。
家族で食卓を囲んでいると、隣の雑貨屋から橋幸夫の「潮来笠」 が流れてくる。
母親が、「8年間日本と戦って、今は日本家屋に住んで、日本の歌」と慨嘆するのだ。
「潮来笠」は当時日本で大ヒットしていたので、僕の耳にも強く残っているが、まさかあの歌が台湾で、と複雑な気持ちだ。
1947年から49年にかけて、何百万という軍人、文化人、技術者が大陸から蒋介石とともに台湾に移住してきた。
彼らの住まいとして、残されていた日本家屋も利用したのだ。
ヤンは観察者だ。
自己の少年時代を注意深く眺め、その社会のさまざまな相貌を設計する。 
ヤンは90年代半ばから、がらりと作風を変えた。
グローバル資本主義の急速な流入によって、都市と人々の生活の速度が劇的に上がったのだ。
『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』に描かれた台北は、『嶺街』のそれとは大きく異なる。
ここでは橋幸夫の歌ではなく、FUJI FILMの大きなネオン広告が都市のアイコンとなった。
2000年、ヤンの最後の映画となった『ヤンヤン 夏の想い出』では、前2作で取り上げた激変する台湾の姿から少し引いて、静かな筆致で家族三代の物語を描く。
小津安二郎の映画が戦後、崩壊していく家族制度のなかで、不安定ながらも個と個とのつながりを優しい眼差しをもって描いたように、『ヤンヤン』においても、なぜかいつもダボダボのスーツを着ている父NJと幼いヤンヤンのつながり、そして恋人と再会する父、長女の恋が併置されているのが胸に残る。
本人が見ることができない他人の後頭部や、建物の天井の角など、人に見えないものをカメラで撮り続ける小さなヤンヤンは、監督自身を思わせる。
ヤンは変化し続ける台湾社会を、ただ観察するだけでなく、見えない構造を取り出そうとした。
彼は学校で映画を教えるとき、生徒たちに「映画作りで一番大事なのは構造である」と言っていたそうだ。
社会の構造と映画の構造、その二重写しをどう美しく作り上げるか。
ヤンのように対象と関係を観察し、分析し、それを構造化し、映画にすること。
この視点は、現在の日本や世界の見方にとても大きな示唆を与えてくれる。
ヤンの映画を観ることは、決して懐古趣味に浸ることではない。 
ヤンは異邦人だったのだろう。
上海で生まれたこと、学生時代にアメリカを放浪をしたことも影響しているかもしれない。
彼は映画を撮ろうと決心したとき、アメリカでのエンジニアとしてのキャリアを捨てて台湾に帰ってきた。
映画制作の環境として決して理想的とは言えない台湾に。
しかし残念なことに台湾社会はヤンの映画に決して寛容ではなかった。  
侯孝賢(ホウシャオシェン)と同様、ヤンにとって映画を撮ることは、自己のアイデンティティを見つめ、変貌する台湾を見つめ、台湾から世界を見つめることだったに違いない。


エドワード・ヤン
1947年、上海生まれ(2007年没)。映画監督。2歳で台北に移住する。金馬奨最優秀作品賞、カンヌ国際映画祭監督賞など国内外で多数の賞を受賞。台湾ニューウェーブの代表的存在。