つんく♂

幼少期から大阪での下積み時代、シャ乱Q、モーニング娘。
声帯摘出、そして今後の展望までたっぷりと語り尽くす!
「僕は調理もして店構えも考えて…… みたいなイメージでプロデュースしてた。でも秋元さんや小室さんはまた全然違うから」

芸人か、ミュージシャンか
いつ頃からミュージシャンになりたかったんですか?
つんく 芸能界に行きたい、歌手かタレントになりたいという意識は小学生の頃からおぼろげにありました。
特に歌手への思いは強かったと思う。
中学生になると基本はスポーツ少年だったけど、大阪ベスト10に入るのがやっとで、日本一どころか大阪一にもなれないのはわかっていました。
もちろん勉強もできなくはなかったけど、せいぜいクラスの上位止まり。
何か英才教育を受けたわけでもなく、習い事といえば、誰もがちょろっと習う程度のピアノとエレクトーンくらいでしたね。
ー小学生の頃から音楽に対する意識はあったんですね。
つんく 小学3年生の頃から聴き始めた深夜ラジオで、音楽とお笑いに興味を持ったことは今でもはっきり覚えています。
ヤンタンの明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さん、嘉門達夫さん、チャゲ&飛鳥、チンペイ(谷村新司)さん、イルカさん、スターダスト☆レビュー、あのねのね。
オールナイトニッポンの笑福亭鶴光さんからたくさんのものを得ました。
お笑いにも興味があったとは。
つんく 中学2年のときに生徒会長を経験して人前で話すことに慣れたというか、「なるほど、こうすれば人は話を聞くんだな」ということを体感した気がします。
その頃から見よう見まねでギターをかじり、中学3年の学園祭で弾き語りをしたのが初めての舞台でしたね。
高校に入ってからはチェッカーズやC-C-Bがブームになって、その直後にはBOOWYをはじめ、バクチクやユニコーン、ジュンスカイウォーカーズ、爆風スランプなど、本格的なバンドブームが到来したんですよ。
そこで、「バンドで有名になりたい! 日本一になりたい!」と高校2年生のときに思ったんです。
大学受験に成功すれば4年間の猶予ができる。
その間にバンドでプロになる道を確立しようと。
でも、もしも受験に失敗したら、浪人せずにお笑い芸人になろうと思ってました。
養成所に入るんじゃなく、誰か師匠に弟子入りしようかなって。
なんで受験に失敗したらバンドを諦めて、芸人になろうと思ったんですか?
つんく バンドをやるには大学生活とか何かしらの生活基盤がないと無理だと思っていたんです。
かといって僕の性格上、同時にバイトをするとダメなやつになるなと感じていて。
きっと水商売のバイトをやったら、歌とかものまねで相当チップをもらえたと思うけど、そうすると[食えてまうがな] となってバンドよりそっちに流れるのが目に見えてたから。
芸人になるにしても、(オール)巨人師匠のような厳しくしつけてくれる師匠のところへ弟子入りしないとアカンやろうなと思っていました。
有名歌手のライブ会場で自らチラシ配り
無事、大学に進学。
4年間でプロになる道は切り開けました?
つんく シャ乱Qを結成したものの、大学時代にプロにはなれなかった。
でも大学4年の頃には大阪のアマチュアバンド界では誰もが知ってるくらいの知名度にはなっていたんじゃないかな。
アマチュア時代に自分たちでプロモーション活動をやられていたそうですね。
つんく 当時は「ファンに婿びを売ってまでチケット売らんでいい」みたいなスタイルのミュージシャンがほとんどだったから。
プロならスタッフゃレコード会社、アマチュアならライブハウスや楽器屋さんがプロモーションするのが当たり前の時代で。
でも僕たちは世間を顧みず、自費でチラシンを作ったり、楽曲とラジオ形式のトークが入ったカセットテープを配り倒したりしていたんですよ。
それは街中とかで?
つんく いや、大きなライブ会場の近くですね。当時はチェッカーズとかユニコーンとか矢沢永吉さんとかが大阪城ホールでライブをやると約1万人のお客さんが集まった。
そのライブ終わりに最寄り駅まで歩いて帰っているお客さんにチラシをまいていました。
だいたい、月に1万枚くらい。
雑読でライブの日を調べて、そこを狙ってチラシをまきに行って、ちよっとでも反応のいい人がいたら、 「カセットもあんで~」って千渡していた(笑)。
-そういう地道なプロモーシが実を結んでプロになれたと?
つんく  一番大きかったのは大阪城公園の敷地内に勝手にバンスペースを作って、そこで無料のストリートライブを定例化させたこと。
無料でファンになった人たちも、そのうちに有料のライブに流れ込むようになって、気がついたらそこらへんのライブハウスの動員記録を塗り替えていくところまでいった。
そのうち全国規模のバンドコンテストで優勝するようになって、プロから声もかかるようになった。
正直、自分が描いたとおりに物事が進んでいきました。
「ああ、このまま有名になってしまえ!」と願っても、それが決して嘘じゃない感じがしていたから。
東京進出後、作品力を上げた下積み期間
満を持して大阪から上京し、23歳でメジャーデビューを果たします。
つんく そのままトントン拍子に売れる予定でいたけど、甘くなかった。
アマチュアバンドとしては関西であれほど有名になったのに、当然ながら東京では無名。
今の時代ならネットがあるから地方も東京も関係ないんだろうけど。
知名度の壁はデカいですよね。
つんく それより何より、大阪にいた頃は宣伝、制作、マネージメントをすべて自分たちでやっていたのに、東京に来たら何をするにもレコード会社、プロダクションの許可が必要になって、自分たちでやろうとすると怒られるという図式になってしまった。
自分たちでレコード店にPRしに行っても、「レコード会社の面目もあるので、そういうことはやめてください」と言われて……。
時間はあるのに売れない、金がないという状況が2年くらい続いて、4、5 ㎏くらい太ったような気がする。
ー負のスパイラルですね。
つんく 見てくれも悪くなって、マネージャーからは「売れる気ないだろ」と毎日のように小言を言われ……。
さらにストレスがかさんでいく、そんな日々やったな。
ーつんくさんにそんな時期があったなんて。
つんく そもそも、プロモーションや動員を上げることばかりに気を取られていたのが根本的に間違っていた。
大阪時代は基軸がライブハウスだから、主導権を握るためにも動員カが欠かせなかった。
逆に言えば、動員力さえあれば、どんな楽曲であれ、どんな演奏力であれ、ライブハウスにとってはどうでもよかった。
客を持っていれば、「よしよし」ってしてもらえたわけ。
でも東京では別の戦略が必要だったことにようやく気づいた。
レコード会社はアーテイストを売り出すとき、ラジオやMTVやキー局の音楽番組を通じて売っていくのが基本。
つまり、当時はどれだけラジオでヘビロテされる曲を作れるかが重要だったんだよ。
なるほど。ラジオ局にハマる曲じゃないと売れていかないと。
つんく  いくつもの作品がテーブルに並べられ、その中で吟味されたものだけがプロモーションしてもらえる。
当時の僕らがそこに至るためにはシンプルに実力が足りなかったんですよ。
今振り返ればはっきりとわかります。
アマチュアでかなり経験を積んできたはずなのにダメですか?
つんく  要するに、根本的な作品力が足りていないことをそれまで軽く受け流していたと気がついたわけです。
そこから音楽の聴き方を変えた。
「バンドとは何か」「ロックとは何か」をめっちゃ考えて。
自分なりの答えが出るまでに2、3年はかかったと思います。
2、3年ですか。
つんく 師匠やプロデューサーがいたら、ものの半年でクリアしていたかもしれない。
でも逆に自分たちにはそういうはっきりした存在がいなかった分、時間はかか
ったけど、自分なりの音楽への接し方、作り方を構築することができたように思う。
時間があったのがよかったと。
つんく 音楽と向き合って突き詰められましたから。
そして、またあらためて自分たちでプロモーションをするようになりましたね。有線放送局に自分たちで電話して営業し始めたんです。
最初はレコード会社のスタッフさんが有線放送局に電話していたけど、「おまえらだけにそんなに時間かけれないよ」ってなって。
それでメンバーが声色を変えてスタッフ役として電話をかけるようになって。
「メンバーに代わります」って言って、「ど~も、シャ乱Qってバンドのつんくっていいます」って(笑)。
リクエストの少ない昼間の時間帯だったら1回は曲をかけてくれてたね。
いや、行動力がすごい!
つんく 地方の放送局にも朝から晩まで電話しました。
ポイントはトーク力。
電話オペレーターにどうやって気に入ってもらえるか、それが一番大事なわけ。暇そうな時間帯に電話しては親戚が住んでるとか、あの特産物が好きだとか無駄話というか地方にまつわるエピソードを話していましたね。
ーただの敏腕営業マンじゃないですか(笑)
つんく もちろん、いくらオペレーターのお姉さんにハマって1 回かけてもらっても、リスナーの 引っかかりがなかったらそれっきり。
でも次第に「今かかっている曲のタイトルとアーティスト名を秋えてください」という問い合わせが増えてきて。
「お兄ちゃんたちの曲、反応いいね。すぐ問い合わせが来たよ」みたいなことをオペレーターのお姉さんからよく言われるようになったのは「シングルベット」(1994年) からでしたね。
FUJIWARAが売れる·売れないのバロメーター
『シングルベッド」がミリオンヒットする前から、大阪でお笑いコンビのFUJIWARAさんとラジオをやられていましたよね?
つんく うん。僕が東京に住むようになってからは関西ローカルの情報がなかなか入ってこなくて、FUJIWARAのことはあまり知らなかった。
誰かわからんけど新人の芸人さんだから、僕が軸で彼らがサブやなって思ってた。
そしたらラジオの構成表に「FUJIWARA  つんく♂」の順番で名前が書かれていて。「あれ?」と思っていたら、彼らがディレクターに近い位置に座っていて。
「僕がメインじゃないの?」と。
つんく いざ始まったらお笑いのプロは違ったね。
弾丸のようにしゃべりまくるふたりにあぜんとした。
僕がちょっとしゃべろうとすると、「はい、うるさい」「黙れ」 みたいな強烈なツッコミを受けて2時間があっという間に過ぎ去った。
まるでマラソンをやった後のようにクタクタになって。
それで帰りに局を出るとき、出待ちしてくれてるファンのコが何人かいたから、「まあ地元やし、いまだに応援してくれてるんやな」と思っていたら、実はほぼFUJIWARAのファンやってん。
ーそれにしても、「はい、うるさい」ってラジオで言われたら腹立ちませんでした?
つんく 自分はしゃべりがイケてると思ってるからしゃべるやん。
でもお笑い芸人からしたら、「それ、いらんねん」っていう。
今ならわかるけど。
今は納得してはるんですね (笑)。
つんく 芸人に絡んでくる素人のしゃべれる系のやつおるやん。
僕は当時、その典型的な性格やったと思う。
彼らからしたら一番嫌いなタイプやったと思うねん。
だから[黙れ」とか言ったんだと思います。
ーでもラジオで黙ったら、そこにいない ことになりますから(笑)。
そんな感じでFUJIWARAさんとの関係性は大丈夫でしたか?
つんく 最初の頃はラジオが終わったら、「おつかれ」と言うくらいでお互い何もすることなく帰ってた。
僕もまだまだ無名だったし、オリコンのべスト50にも入らないバンドだったから、彼らの興味の対象外だったと思う。
後にフジモン(藤本敏史)さんはつんくさんが作ったモーニング娘。
の曲を完コピして踊りまくってましたけどね(笑)。
つんく しばらく一緒にラジオをやっていたら、「上·京·物·語」 (94年)という曲がオリコンのベスト30に入って、次の曲もスマッシュヒットして有線ではベスト10入り。
そしたら彼らも少しずつ認めるようになってきて。
でもCDのサンプルを渡しても、「ありがとう」と言って受け取ってはくれるけど、現場に置いて帰っていた。
-失礼ですね。なんか先輩がすいません。
つんく だから、「シングルベッド』のときも当然のごとく置いて帰っててん。でも、曲が売れてきたら、原西(孝幸)が「つんく♂やん、あのCDないの? 知り
合いに『欲しい」って言われてん」って言ってきて。
そのときに初めて僕らは売れたんやなって思いました。
FUJIWARAさんがバロメーターになっていたとは。
その後、つんくさんは彼らの曲をプロデュースしましたよね。
つんく 吉本印天然素材(ナインティナイン、雨上がり決死隊などからなるユニット。以下、天素)でアルバムを作るって話になって、僕がFUJIWARAの曲を担当することになったのよ。
-あんな失礼なふたりによくやてくれましたね。
つんく  その頃はもう音楽のウンチクをマスターし始めてたから、自分の力を違う方向で試せるチャンスだと思いました。
でも芸人さんのプロデュースは大変だったんじゃないですか?
つんく まあまあ歌える原西とそうでもない藤本をうまく使って、どんな曲にするかはめちゃ迷ったよ。
でも20年たったときに、「あの曲は恥ずかったよな」ってなるのが一番いやだから。
熱すぎてもカッコ悪いし、笑いに走ってもしょっぱいしね。
結果、天素の中でもブサイクだったふたりがアイドルチックな曲を歌うってことと、そこそこの歌唱力を生かしてちょっといい歌を歌うってことに決めたのよ。
ほかの天素のメンバーもそのときにはやっていた作家陣を選んでたから、自分としても負けられないという気持ちが強かった。
レコーディングとか大丈夫でしたか?
つんく 音楽作りに関してはふたりもそこそこまじめに取り組んでくれて、「わからんけど、つんく♂やんに任すわ」って感じで言うとおりにやってくれたよ。
-よく考えたらモーニングのプロデュースを始めるわずか3年前ですもんね。
つんく そこで作ったアルバムが大ヒットすることもなかったけど、シャ乱Qで学んだことを短期間で凝縮して形にする作業には手応えを感じていたし、ふたりに作った2曲は突き抜けていたという自負があった。
それがその先のプロデューサーとしての仕事の導線になったことは間違いない。
まさかFUJIWARAさんとモーニング娘さんがつながっていたとは驚きです。
つんく そのあたりからふたりとは番組終わりで毎回夜食を食べながらダメ出し会をするようになった。
僕はいつも早朝の飛行機で東京に帰ってたから、ほぼ寝てなかったと思う。
寝たら飛行機に乗り遅れるっていうのもあるけど、あのふたりの弾丸トークに食い込んでいくために力を使った後は体というか脳が完全に興奮状態で、どんなに寝不足でも寝れるような感覚じゃなかったのよ。
わかります。ラジオの後って確かに寝れないです。
つんく 最初は「うるさい黙れって」ツッコまれてたけど、それもなくなった。
それは僕なりにミュージシャンとしての立ち位置をつかみ、お笑い芸人にトークで勝とうという意識もなくなり、彼らに対するリスペクトとともに、僕の話すべきことがなんなのかが見えてきたからだと思う。
そういう感覚も後々の全国区でのテレビ番組でのトークに確実に生きている。
SMAPやダウンタウンさん、とんねるずさん、さんまさんと絡むときの自分の立ち位置を感覚的につかめるようになったと思う。
29歳でモーニング娘のプロデューを始動します。
つんく シャ乱Qは年間10曲程度しか作品を作らなかったし、エネルギーを余らせている時期でした。
そんなタイミングでプロデュースの仕事が入って。
「僕じゃない誰かが歌う」ってことに恐怖感はあったけど、好奇心もあった。
結果、彼女たちの作品を全面的に請け負っていくようになりました。
ー『ASAYAN』(テレビ東京)でのプロデュースですね。
自分の曲を人が歌うことになぜ恐怖感があったんですか?
つんく  シャ乱Qでヒット曲を書かせてもらえたのは音楽の神様のおかげやと思っていて。
才能や努力だけじゃなく、いろんなことが重なって作れたから。
なのにちょっとスケベ心で、新人の女のコに曲を書こうという気持ちを神様に見透かされて、「おまえにはもうヒット曲は書かせない!」みたいに怒られるんじゃないかなって。
ーそれでも、『ASAYAN』を引き受けたのはどうしてですか?
つんく 上手に番組に促されたところもあってんけどね。
最初は「番組でサイドストーリーを展開するんでそのメンバーを5人選んでください」から始まって。
何日か後に「例の5名の部分視聴率が良くて、いったん彼女らをまとめたグループ名を決めてもらえます?」って……。
えらい刻んできましたね(笑)。
つんく そんな流れでやらないとしゃあないなって。
ーそれでいざ始めたらモーニング娘が「紅白』に出場したり、ミリオンヒットしたりと大成功。
つんく 曲がヒットし、紅白が決まったときは「このままいい結果だけ残して解散するのがカッコいい」って本気で思ってたのよ。
だからずっと続ける気は一切なかった。
それでも9年には「LOVEマシーン』がミリオンヒットして、もう引き返すことができないし、何より作品を作ることに対して興奮状態に入っていたんだと思う。
アドレナリン出まくりで、「寝なくてもスタジオにいたい!」みたいな感覚でした。
ープロデュースする相手が思春期の女のコということで苦労したことはなかったですか?
つんく  苦労はあまりなかったかもしれませんね。
ただ若い女のコを扱うので、プロデューサーとはいえバンドマンの僕とアイドルが接近していると、ファンはジェラシーを感じるだろうと思っていた。
だからおニャン子たちととんねるずさんのような距離感でいようと。
最初の頃はスタジオでメンバーと一緒にいても、同じ画角に入らないようにカメラマンさんにお願いしたのをよく覚えてます。
ーファンに対する配慮をしていたと。つんくさんはオーディションで、「自分の好みにピッタリのコはあえて選ばない」という選考基準があると聞きました。
つんく  えこひいきしたくないという気持ちが強かったので。
あとはやっぱり歌がうまいことも大事やけど、気持ちとか姿勢とかを重視してセンターを決めたかな。
シャ乱Qにはお祝いで 歌える曲がなかった
-今振り返ると20代はどうでしたか?
つんく だいぶ急ぎすぎてたかな。
もっと丁寧にゆっくりやってたら違ったと思うけど、まあ、あの頃の僕にそんなことを言っても絶対に聞くわけないし(笑)。
「あのとき、ああしとけばよかった」と思うこともあります?
つんく いっぱ いあるよ。例えば、シャ乱Qにはお祝いで歌えるような曲が1曲もなかったのは悔やんでる。
ウルフルズは「バンザイ~好きでよかった~」を作ったよな。
「しまった!」と思ったもん(苦笑)。
だから、モーニング娘が続行すると決まった後、結婚式を盛り上げる系の曲を作るに至るまでは早かった。
それが「Happy Summer Wedding」ですね。
シャ乱Qではあえて作らなかったということですか?
つんく 92年デビューで同期のミスターチルドレンが常に横にいて。
向こうはポジティブな曲を歌うから、僕らはジゴロなイメージ というか悲しい歌のほうに行かなあかんやろなという勝手な責任感はあったかも。
誰に言われたわけじゃないけどね。
30代に突入して、シャ乱Qが活動休止。
それからはプロデューサー業が一気に増えましたが、誰か尊敬したり、参考にしたりしていた方はいましたか?
つんく  当時は小室(哲哉)さんが群を抜いていたので、もちろん意識はしていました。
でも接点はなかったですね。
ビートルズのブライアン·エプスタインのことも常に頭にありました。
とはいえ、 ほかの誰かのやり方はまったく知らないまま、独自の方法でやっていたように思います。
例えばどんなことですか?
つんく シャ乱Qで足踏みしたようなところをショートカットするようなイメージで、モーニング娘には頭を使わせることなく、「これをやっていれば絶対に間違いない」という答えに向かって進ませました。結果も面白いようついてきて、メンバーも「こうすればいいんですね」という実感とともに過ごしていたと思う。
AKB48、秋元康をどう見る?
つんくさんが40代になった頃にAKB48やももいろクローバーZ、K-POPなど、ほかのアイドルも台頭してきましたが、そのあたりは意識しましたか?
つんく 意識してたと思います。
「こうしたほうがいい」という策は自分の中にあったけど事務所的には「いや、まだそれはしたくないんだよね」とか「それはうちのカラーではないな」みたいな方針があって。
よく似た違う方法をあれこれ模索している間にほかのアイドルがヒョイヒョイと出てきて、「あらら。やっぱりな」みたいな…。
ーつんくさんはどういったことをやりたかったんですか?
つんく 具体的に言うと、「若手を育てる下部組織の仕組みをもっとしっかりつくらなあかん」とか「ファッションはこうしたほうがいい」とか。
CDの売り方に関しても思うところはあった。
SNSやYouTube、ファンクラブのつくり方など細部のつながりですね。
新人や新しい組織はガムシャラに突っ走るし、当たって砕けろ的な勝負も打ってくるし、ジレンマはありましたねしたね。
AKB48が出てきた頃、プロデューサーの秋元康さんと交流はありましたか?
つんく あったよ。
-どんなお話をれましたか?
つんく 秋元さんは分析家やから「つんくはこうだよね」とか「おニャン子のときはこうだったけどね」とかよくアドバイスをくれましたね。
「つんくはやっぱりクリエイターだから」って僕のことを職人として評してくださる。
確かに全部自分で見えてないと納得できないところはあったんよね。
飲食店にたとえると、僕は調理もして店構えも考えてお客さんの顔を見ながら料理を出して ……みたいなところまでやるオーナーシェフみたいなのがカッコいいって当時は考えてた。
でも、その方式だったら2、3店舗を切り盛りするのがやっとなんだろうね。
でも秋元さんは「コンセプトのメニューを決めて、あとはそれぞれ任せちゃえば、100軒でも200軒でも出せるんじゃない?」というような笑い話をした記憶がある。
なるほど。わかりやすいです。
つんく 結果的にはやっぱり数軒のレストランを切り盛りするより、100軒のフランチャイズをつくったほうがビジネスチャンスはでかいという話につながる。
もちろんリスクも大きいんだろうけど。
なるほど、過去の経験値から来る考えだなって思った。
-AKB的グループは今や世界にも進出していますからね。
声帯摘出で感じた「運」
45歳で声帯を摘出。相当ショックだったと思いますが、心の整理をどうやってつけましたか?
つんく 最初は運がないなと思ったよ。でも結局、病気はそこまでの人生の結果だと思う。
もちろん不摂生しまくっても90歳まで元気な人。
健康に気を使いまくってたのに短命な人。
そんなことも含めて人生の結果だと。
俺は30歳前後でたばこもやめてるのに45歳で病気になった。
歌手という意味でいえば第一線にい続けるには、強靭なる運と実力と精神力を伴わなければならない。
才能だけでは持続できないってこと。
だから他人に対してうらやましく思うというよりも、僕にはそこまでの運がなかったんだなという気持ちのほうが強い。
運に加えて、のどが強い弱弱いとかもあるんじゃないですか?
つんく それも持って生まれた才能やね。
生まれつき足が速い人とか。
つんく 先天的に足が速い人でも、大事な大会で肉離れをしてダメになる人もおるわけやんか。
だから瞬発的な才能と長期的な才能をふたつ備えないと。
つんく♂さんは手術の約2週間後、TOKIOのコンサートを奥さんと見に行ったそうですね。
つんく 最初のがんの治療の途中、「治ったらTOKIOのライブに行こう」ってウチの嫁と話しチケットの手配をしてたんよ。
それが結局、手術することになって入院と重なった。
なので行けないなって思ってたんやけど、退院が少し早まってなんとか間に合った。
げっそり痩せて体力も落ちてヨレヨレのしょぼしょぼの俺をT0KI0のメンバーが笑顔で迎えてくれてね。
そのときに「ホームパーティとかするなら呼んでくださいね」って社交辞令的トークをしてくれたんやけど、俺がお礼メールに「ほんま、もしもっと元気になったらおいでよ」って書いたら、メンバーから「いつにしましょう?」って連絡が来たのよ。
それはうれしいですね。
つんく ほんまありがたいなって思ったよ。
それでホームパーティをやったんだけど、長瀬(智也)の提案で「つんくさん、ギター弾いてください! なんか軽くセッションしましょうよ」って言われて。
「あ、そうか、そういう方法があるんやな」って音楽に対してハッとさせられたんよね。
なんか全部終わった気がしてたから。
そしたら急に心がポジティブになって。
がんになったからこそ、気づかされたことばありますか?
つんく ちょっとしたことでも幸せやなと思えるようになったことかな。
炊き立てのご飯を口に入れて、「うまいな~幸せやな~」と思うとか。
子供を育てる幸せとか。
病気をせずに忙しくしていたら、一生家庭を顧みなかったかもしれへんからね。
小室さんとはプロデュース方法が全然違う
47歳のときに小室哲哉さんと一緒にプロデュースのお仕事をされていますが、小室ファミリー全盛期は接点はなかったんですか?
つんく もちろん番 組とかで会ったら挨拶したり、「シャ乱Q、頑張ってるね」
って声はかけてくれてたけど、僕らも小室さんも超忙しかったから、ご飯に行ったりすることはなかったね。
一緒に仕事をやってみて、プ ロデュースの方法は違いました?
つんく 根本的に全然違います。
May Jのときは小室さんが「つんくのが全部好きにやっていいよ」って言ってくれたから、すんなりうまくまとまった。
そもそも小室さんは歌録りはディレクターに任せるタイプ。
歌手に指示するならきっと「好きなように歌えばいいじゃん。あとは俺がカッコよく仕上げるから」って言うんだと思う。
僕はボーカルとしてその歌手がどう歌うかがすごく気になるタイプ。
どっちもそれぞれ得意分野があって、それが個性となって音楽の特徴になっていると思う。
ミュージシャンではなく IT実業家だったかも!?
以前、子供にいろんな職業を理解してもらうワークショップをやりたいと言ってましたよね?
つんく 僕らが子供の頃に知っていたのって、テレビドラマに出てくる職業か芸能人か野球選手くらいなもんでしょ。
でも僕らと同世代にも楽天をつくった三木谷 (浩史)さんがいたり、ライブドアをつくったホリエモン(堀江貴文)がいたりするわけ。
僕は芸能界しか見てなかったけど、あの方たちは将来を見越してITの世界に飛び込んだ。
「なんでそっちを思いつかへんかったんかな~」と思うわけ。
ヒット曲を作る才能があったのになぜインターネットで通販会社をやることを思いつけなかったんや~って(笑)。
とまあ、言うのは簡単で、それって答えを聞いたら、「あ~」って思うなぞなぞと同じ。
最初に気がつかなきゃ負け犬の遠吠えって話で。
なるほど。
でも、つんくさんばミュージシャンを選んだわけですよね。
つんく だって僕らが子供の頃に何種類の職業知ってた? 全然知らなかったよね。
学校でも習わないし、きっと先生も知らない。
もちろん今でも知ってるのは見えてる部分だけで、世の中にはごこまんと職業がある。
それを子供の頃に少しでも知ってたらなと。
え! それを知ってたらミュージシャンをやってなかったかもしれないんですか。
つんく (笑)。結果論やけど、もっと稼げる職業があるって知ってたら違ってたかもよ。
だから、世の中にどんな職業があるのかよくわかっていない子供のために、 いろんな職業のワークショップや、実際に体感できるキッザニアみたいなサロンがあればいいなと思ってるの。
つんくさんは最近、「アイドルをやったことのない新人でも現役アイドルでも、才能があるならそれを作品にしたい」とツィートしてましたよね?
つんく 「誰かやりたいコがおったら声かけて」って言うたら、いっぱいメッセージが来て ……
いゃ、そら来るでしょう(笑)。ツイッターで見つけてプロデュースすることもあるんですか?
つんく  うん。詞や曲を書くだけがプロデュースじゃないから。
12月もたくさん曲を書かないといけないけど、少し時間があるから誰かプロデュースしようかな。
全然休む気がないですね(笑)。