鬼海 弘雄 Hiroh Kikai

イメージだけでいい写真もあるんですよ。
おしゃれな店やきれいなモデルやファッションの写真は、いかに魅力的なイメージに撮るかが問題で、それはそれでいい。
でも、僕が撮っているのは金にならない写真だからね。
金にならない写真を真剣に撮る意味はどこにあるのかというと、それは写真を見てくれる人の想像力をどれだけ揺さぶれるか。それしかない。
それは写真に限らず、詩でも文学でも音楽でも同じ。あなたの見る力、あなたの読む力で、物語を立ち上げて下さいというのが表現であって、だからこそ見る人の感性を貫くような「何か」がなければ表現とは言えないんじゃないかと。
それはもう、わたしのような凡庸な者が表現などという大それた事を成そうと思えば、考えて考えて、考え抜くしかないでしょう。
だって写真なんて誰でも撮れるんだから、人と同じことを考えていたら人と同じ写真しか撮れないでしょう。
仕事でも何でもとことん真剣に難しい方へ難しい方へ思考の先を持っていかないと。
大事なのは、どこまで難しいところに行けるか。
「なにやってんだ、オレは」というような無為な時間にどこまで耐えられるか、だよね。
自分を表現しようとしているうちは写らないんだよね。
圧倒的に苦しい時間があっても、それでも何で続けられるかというと、そこで自分の中を掘り下げて考えるから。
何の意味もない無為な経験が自分の内側に蓄積されないとやってこない「時」というものがあるんだね。