ついにスタートした自動車王国日本

「車は性能じゃない、デサインだ!」などとおっしゃる人達が胸をときめかす時代。
それはやっぱり’60年代でしょう。
日本の国に合った車を思考錯誤しながら作っていた’50年代から、車社会へと突入した’60年代の自動車のインパクトの強いことはもう確かです。
千葉の幕張なんぞでやるようになってしまった東京モーターショウも、第1回は日民谷公園で、乗用車たったの13台で始まったのでした。
それが自動車王国ニッポンの幕開けでもあったのです

日産ブルーバード 幸福を呼ぶ青い鳥

トヨタ・パブリカ 通産省の国民車構想に基づき開発!


日比谷で行なわれた東京モーターショウも、その後、 後楽園を経て、第6回から晴海で行なうようになったのが’59年。
高度経済成長の波に乗って、あちこちで高速道路建設が始まり、その年ですでに交通事故で亡くなった人が1万人突破。
戦後、海外の自動車メーカーのノックダウン生産で培った技術を生かして、ようやく完全国産化が始まった。
それはまた同時に、日本車の超美的スタイリング大競演の始まりでもありました。

★トヨペット。コロナ。
61年モデルで当時の国産車の中では最先端の車

ヒルマン・ミンクス。いすず自動車の海外メーカーからのライセンス生産の車

hillman いすゞ自動車 ヒルマン・ミンクス

モーレツな勢いでわかっちゃいるけどやめられない。
止まらないの快進撃の自動車産業でした。
みんなが若かったのです。
スカイライン生みの親として知られる桜井真一郎に、世界のホンダを目指していた本田宗一郎も、クルマ造りへの情熱が燃えさかっていたのでありました。
’63年には、第1回日本グランプリが開催されるものの、外国車のパワーに感動しっぱなしで、逆に日本車の未熟さを改めて痛感させられる惨々な結果となりました。

プリンス グロリア デラックス

ニッサン・セドリック


しかしながら、 翌年’64月には、ホンダがF1進出を発表、日本人の誰もが古館伊知郎のごとく自動車レースに熱中していったのでありました。
そしてこの年の話題といえば、第2回グランプリでの、スカイラインGT対ポルシェ904ということになります。
明らかに勝ち目はないと思われていたハコ型スカイラインが、ポールポジションを奪い、決勝でもあと一歩のところまで追いつめ一度は抜くものの、勝利を逃してしまった…
これが今も語りつがれる、ハコスカの神話というやつです。
そんな影響もあってか、その頃から大衆車はどんどんスポーティーになりました。

フェアレディ1500 1500cc71馬力エンジン

スカイライン・スポーツ・コンバーチブル

ホンダS800 ついに登場ホンダのスポーツカー


決してかっこは良くないが、妙な味わいのトヨタスポーツ800·通称ヨタ8に対し、その当時、時代を先取りしてメカニズムという言葉に憧れを抱かせてくれたホンダS600。
そしてフェアレディと、この時代の車は全てが高性能で小型,コストパフォーマンスにも優れていました。
各メーカーが競い合い、その当時のいわゆるユーノスやビートのオリジナルが、まさに次から次へと誕生していく夢のような時代でもありました。
うらやましい時代だったでしょう。
もっとも車は女にもてる為の必需品などと言ってる人にとっては無関係なお話。
自動車王国の住人はすっかり見栄っぱりになってしまったのですね。
情け無いレプリ力風自動車まで発売される車デザインの末期的症状は、いかに当時の車が美しかったかの証拠じゃありませんか?