民芸 Folk Handicraft

濱田庄司 Shoji Hamada

人間国宝の濱田庄司(1894~1978)の陶芸は今なお国内外で高く評価されています。
濱田は東京高等工業学校窯業科(現・東京工業大学)を卒業後、京都市立陶磁器試験場に就職しました。
その後、英国のセント・アイヴスにてバーナード・リーチとともに作陶に励み、ロンドンで最初の個展を行い高い評価を得ました。
帰国後は、栃木県益子に居を定め、終生益子での作陶活動を続けました。
1925年頃から、柳宗悦・河井寛次郎らとともに“民藝”(民衆的藝術を略した造語)運動を推進したことはよく知られています。
濱田は自らの作陶においても、民藝の無名の工人たちの精神を体現しながら、生活に根ざしたやきものづくりに生涯をかけ、実用第一の健やかで堅実な作風の作品を数多く残しました。

棟方志功 Shiko munakata

眼病の棟方志功
眼を剥(む)きて
猛然と彫るよ
森羅万象谷崎潤一郎がこう歌った棟方志功は、その生き方もまた激しいものでした。
何ものかに憑(つ)かれたように夢中になるのは、子供の頃からでした。
このような創作態度の中から多くの作品が生まれました。
そしてサンパウロ・ビエンナーレのグランプリをはじめ、さまざまの国際的な賞を獲得しました。
しかし彼は自分の作品を創り出したとは言わず、生まれた、頂いた、と言っています。
「版画」とは書かず、「板画」と書いたのもそのためです。
私の板画というのは、そうですね、自分から作るというのではなく、板の中に入っているものを出してもらっている。
作るというより生まして貰うと言うんでしょうかね。
生んで貰いたい、という願いなんですね。
そういう一つの自分は、板のもっている生命と言うんですかね、木のもっている生命というものと合体して、自分の思いというものを十分に発揮し、そしてそういう板から受ける大きい生命(いのち)というものか、力というものをこっちの紙に写して頂くと言うんで、作るというより頂くのが多いというので、板画という字を使うんですがね。

黒田辰秋 Tatsuaki Kutroda

黒田辰秋 (くろだ たつあき)(1904~1982年) 京都出身。
指物(さしもの)などの木工と乾漆、螺鈿(らでん)などの漆芸で幅広く活躍された人物です。
1924年ごろ、河井寛次郎の講演に感銘を受け、河井寛次郎と知り合い、柳宗悦のもとで民芸運動に、参加する様になります。
作風は木理(きめ)の美を生かした単純、豪壮な器形、また絢爛(けんらん)たる螺鈿の加飾表現に特色があります。重厚な造りのなかに、シャープで切れのある独自の作風を、確立していきます。
とくに李朝の木工品や、螺鈿(らでん)器に興味を持ち、研究を続けます。
1966年には皇居新宮殿の拭漆樟大飾棚、扉飾、椅子、卓を制作しています。
その他、黒沢明御殿場山荘の家具セットなども製作しています。

浅川伯教 Noritaka Asagawa

新しい美の発見。
それまで見向きもされなかった“李朝”-朝鮮時代の陶磁器や工芸品が、1920年代以降、一躍注目を浴び、多くの陶芸家、研究者、愛陶家の眼を見開かせました。その過程で先駆者的な大きな役割を果たしたのが、浅川伯教(1884~1964)・巧(1891~1931)の兄弟でした。
植民地期(1910~45)の初期に朝鮮半島へ渡った二人は、朝鮮家屋に居をかまえ、現地の人々に溶けこみながら暮らします。
そして伯教はやがて朝鮮陶磁研究の第一人者となり、また弟の巧も、陶磁器および朝鮮の木工品について名著を残しました。
一方で兄弟は柳宗悦(1889~1961)に大きな影響をあたえ、柳の朝鮮美術工芸への案内役となります。
そこに富本憲吉、河井寬次郎、濱田庄司らが加わり、後の「民藝」誕生へとつながりました。