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レジェンドに訊く!CM黄金時代

バブルに沸く日本を鮮やかに彩ったTVコマーシャル。
ブラウン管の向こうの真新しい世界に誰もが笑い、針づけとなった。
今見ても新鮮なCMの舞台裏を歴史を率いた二人が振り返る。

「CMはお茶の間が育てた」。小田桐昭が語る全盛期

1960年代、日本のTVコマーシャルの撃明期から携わってきた小田桐昭さん。
ACC(全日本CM放送連盟)では自身の名を冠した「小田桐昭賞」の審査を務め、
今なお広告の現場に深く関わり、見つめ続けるCMプ ランナーだ。
小田桐さんは、日本のCMを育てたのは”お茶の間”だと語る。
巨大な胃袋で「もっと珍しいもの、面日いものを見せてくれと貪欲に求めてきた」と。
80年代はその”お茶の間文化”の最後であり、CMが絶大な影響力を誇った時代だ。
「どこかで火がつくと日本中、誰もがその話題をロにしました。広告から流行り言業が生まれ、CMソングが流行した。限られた人の間で特定の情報が盛り上がる現代とは、まったく異なる現象があったんです」

「進むべき道は違うところにあった」

TVCMをどうやって作ればいいのか誰も知らなかった60年代、「アメリカからフィルムを集めたり、人を呼んだりして、僕らはそれを食い入るように見て学びました」
と小田桐さん。
そうして始まった日本のCM史だったが、60年代後半にもなるとレナウンの「イエイエ」(67)やバイロ ットの『はっぱふみふみ』(68)が登場、やがてアメリカ的な広告手法から離れていく。


「マクルーハンの『メディアが変われば、人の理解のしかたも変わる』という理論があるんですね。CMの新しい作り方を模索し始めた僕らは、それこそが自分たちの進む道だと飛びついた。グーテンベルクの活版印刷発明以来の”文字”による説得とは映像でのコミュニケーションは変わるはずだと。
日本のCMが欧米とは違う道を進んだのは、この点が重要なところです。
いまだに海外の人には日本は変わった広告ばかりだと言われますが、僕らもまた『(欧米は)いつまでも同じものばかり作って』と思っているわけです(笑)」
目にしたことのないものをCMに期待するお茶の間に応えて、TVで何ができるかという実験をひたすら繰り返した70年代。
小田桐さんは「何をやっても新鮮でしたから面白かったですね」と当時を語る。

「広告にはお金を注ぐだけの力があった」

「どうすれば心は動くのか、 表現の力を学んだ作品です」(小田桐さん)/松下電器産業(トランザム)『高見山』編 (78) CD·P:小田桐昭

「降りかかる困難維をユーモアで表現することに挑戦」/東京海上火災保険(現:東京海上日動) 損害保険『ビリヤード 危険がいっぱい』(81) PR-P·C:小田桐昭、P.C:鏡明+鈴木花子

「上原謙と高峰三枝子が演じる美しい熟年夫婦が話題に」/日本国有鉄道『フルムーン旅行 お風呂』(84)CD・P・C:小田桐昭、AD:鈴木八郎

「80年代のTVCMを象徴する人は誰かと言うと” 川崎徹”です」と小田桐さん。
CMプランナーが企画するエージェンシー主導の広告の作り方は、80年を迎えると「少し停滞した」ように感じたという。
「そんな時に川崎さんのような自分たちでプロダクションを作り、CMディレクターが主体となってCMをリードする人たちが出てきたんです。
彼がやったのは『広告が(既存の)広告を笑う』という新しい視点。
いわば当時のアジテーターだったわけですが、それがCMを元気にした。同時に糸井重里さんや仲畑貴志さんのような人が出てきた。 スター·コピーライターの時代です」
そういった個人のスター性で、広告界全体が息を吹き返したのだと言う。
「川崎さんはマイナーが持つ面白さや、既存のものを壊すエネルギーの強さを知っていて、それを戦略的にやった。頭の良い人です。そういう意味では本当に腹の立つ人なんですけど(笑)、お行儀のよい大人がドギマギする危ない線を狙ってくるから痛快なんです。
そうなるとメジャーは辛い。
でも、僕は “メジャー”だからこそできる広告を目指したし『マイナーに負けるわけにはいかないぞ』という自負もありました」
当時の小田桐さんは大手のCMを何社も手がけ、受賞作も数知れず。
3000社のクライアントを擁する電通で、まさにトップクリエイターとして活躍していた。
「現場は楽しかったですね。算も大がかりな時代で、海外ロケならスタッフも飛行機はビジネスクラス。フィルムで撮って現像まで現地でやってチェックしていたから、大勢で2週間くらいは滞在するんです」と、CM制作は今では想像のつかないほどのスケールで行われていた。
「それだけ広告に力があった。CMがお金をかけるに値する存在だったんです」

「表現こそが何かを変え人の心を動かす」

しかし、安易にカッコいいものを目指したりすると「必ず失敗した」と小田桐さん。
代表作のひとつ、松下電器産業の小型テレビ〈ヘトランザム〉のCMは『高見山』編(78)の前に「実は海外ロケをして作ったのにまったく反応がなかった。
予算も使い果たし、2作目をどうしようかとなり方向を変えたんです」。
ホリゾントの前で当時人気カ士だった高見山に30年代のファッションでタップを踊らせた。
日曜洋画劇場の枠で流したところ、放送直後からすごい反響に。
同じように、2本目にして成功したのが日本国有鉄道の『フルムーン旅行』(84) だ。
「最初は実際の夫婦を使った、正しいけれど地味なCMを作ったんです。すると、旅では “非日常”を味わいたいのに夫と一緒では楽しくもなんともないと言われてしまった(笑)。
それでまったくのフィクションにして、“セクシー”をテーマにした熟年夫婦の旅を描いてみたところ、爆発的に広まった。
表現こそが何かを大きく変えたり、動かしたりすることを実感しました」
それは、小田桐さんがCMプランナーの仕事を続けてきた理由でもある。
「僕たちの仕事には人の心を動かすという面白さがあるんです。もちろん芸術もそうですが、大人から子ども、いろんな人たち、TVCMほど多数の“普通の人” に届けられるメディアはない。足を運ばないと見られない芸術とは違って、広告は視聴者である“庶民”がお茶の間に居ながらにして楽しめるものでした。くつろぎを求めていた人たちに必要な娯楽だったんです」
80年代とは異なり、今はメディアが複雑化し、お茶の間も個へと分解してしまったが、小田桐さんはこうメッセージを送る。
「CMを作る人間は “普通の人”の力を侮ってはいけない。最近は波風を立てないようにと初めから腰が引けてしまっていますが、心を揺さぶる“冒険”のないCMを作ることは消費者をバカにすることなんです。日本の “庶民”ってすごいんですよ。抽象的なものでもなんでも、すべて飲み込んできたんですから。それがいつの日からか、広告の方が茶の間を消費者ととらえなくなってしまった。コンビニの担当者が広告の相手になってしまったんです。80年代、川崎徹が現れなかったら広告業界はきっとつまらないものになっていたように、これからの作り手にも冒険してもらいたいなと思いますね。今ではすっかり若い人より僕の方が過激なくらいですからね(笑)」

シーンをひっくり返した川崎徹の崇高なたくらみ

かわさき·とおる>> 1948年、東京都生まれ。早稲田大学卒業。CMヒット作は数々。小説を多数執築。近著『あなたが子供だった頃、わたしはもう大人だった』(河出書房新社)。

「希林さんは圧倒的。こちらも迂闊に臨めませんでした」(川崎さん)/フジカラー『それなりに』(80) PR: 山本雅臣、P:川崎徹+林靖夫


「懐の大きいクライアントと良きチームとの出会い」/キンチョール『よろしいんじゃないでしょうか』(82) PR:沼田秀次、 P: 堀井博次+川崎徹


「いかに“何もしない”で60秒を過ごさせるかを考えました」/西武百貨店『おいしい生活』(82)PR:高橋増夫、P:川崎徹+糸井重里+浅葉克己

「石岡さんはグラフィックの世界で唯一”時間”を理解していた」/バルコ『宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテ アデスガタ)』(80) P: 石岡瑛子

バルコ『宿愚連若衆艶姿(ヤサグレテ アデスガタ)

樹木希林が絶妙なかけ合いを見せるフジカラーの『それなりに』や、一世を風靡したキンチョールの『ハエハエカカカ』。
記憶に鮮明な作品の数々が、川崎徹さんによるものだ。
ACCの第6回「クリエイターズ殿堂」にはこうある。
《1980年代、さまざまな広告クリエイターが脚光をあびるなか、“川崎徹の時代”というものが確かにあった》と。
広告界に風穴を開けた希代のCMディレクター、だがその始まりは「偶然のなせる技」だったと川崎さん。
「大学卒業後、最初に採用通知をくれたのが電通映画社だったんです。今考えるとラッキーですよね。面白そうだと深く考えもせず足を踏み入れた世界が、自分のやりたいこととぴたりと合ったわけですから」
入社後すぐに頭角を現し2年目にはCM作家に。
それからほどなく、1972年には「外の人とも仕事をしてみたい」と独立し、フリーのディレクターとなる。
当時の演出家は徒弟制度みたいなもので、仕事は現場で教わりました。まだ23、4歳の頃ですからいろんな人に助けてもらいました。出発から非常に恵まれていたんです」

「今でも納得のいく仕事はほんの一握りです」

1本のCMは制作開始からフィニッシュの納品までに約2カ月、最初の企画から携
わると約半年を要するプロジェクトだ。
「ですから、いろんな広告を同時進行で手がけるんです。多忙なときで8本くらいを並行してやってましたね。1、2本だけだと逆に深く考えすぎてしまって難しい。数多く撮っていたときが、仕事のクオリティとしても一番高いものになってました」
時代はCM全盛、川崎さんの元にはオファーが殺到、年間にして70本近くの作品を作り上げた。
その川崎さんにして「良い仕事だと今も言えるのは2、3本です。納品レベルには必ず技術で持っていきますが、どうやってもそれ以上にいかない仕事が半分くらいはあるわけですよ。
『これは面白くなりそうだ』と思えるのが残りの半分に1本あればいいくらい」と話す。
そのなかで「”くだらなさ”において今も滅びてない」と認めるのが、電通関西支社局長であった堀井博次率いる “堀井グループ”と組んだキンチョールシリーズだ。
「コテコテの大阪の笑いを全国ネットで届けるにあたり ”少し薄める”というのが僕の役割 (笑)。
そこで郷ひろみを登場させたんです。
彼のポピュラリティを利用して“変なこと”をやる。
ああいう太陽がいるおかげでそれがメジャーになる力学が生まれるんです。
1年のなかで柱となる『ここは絶対に外せない』という仕事が何本かあるん
ですが、キンチョールがそうでした。
10年ほど続けましたが1本も失敗はないですね」
もうひとつ、好きな作品だと話すのが、糸井重里の作ったキャッチコピー 「おいしい生活」と書いた紙をウッディ·アレンが広げて見せる西武百貨店のCMだ。
「あれは最初の打ち合わせで糸井さんの言葉を聞いた瞬間にできてしまった。その場ですぐ『これはいけるな』という感触がありましたが、2週間ほど寝かせてからさも考えてきた風に後から提案したんです(笑)。歴代で最速でできたコマーシャルです」
「ユーモアとは違う包丁」を使い、一枚絵の力にどう時間を流すかをテーマに作ったのがパルコのキャンペーン。
「映像とは何かと言うと ”時間” なんです。平面のグラフィックとは違い、絵柄は何も変化せずとも最初と最後で “時間”が変わる。その経過は、音楽でも、言葉でも表現できるんです。それがなければ15秒や30秒のCMにする意味がない。単純に1枚の絵作りで終わってしまいますからね」

「80年代という”時代の風”を受けた」

学園紛争に参加しなかった、アンチの意識が持てない人間だったからこそ「体制、反体制にこだわらず自由に作れたし、“くだらないこと”に没頭できた」と川崎さん。
道ですれ違う小学生の姿や、毎日観ているというデヴィッド·リンチの天気予報配
信。
川崎さんの目がとらえる日常には、独自のセンスとユーモアがあふれている。
「今でも頭の中の8割を 『くだらないこと”が占めてますね(笑)。糸井さんには『川崎さんは世間話をしない』とよく言われてました。子どもや老人の話か、でなければ難しい話ばかり。確かに、その中間にある “世間”はすっかり抜け落ちてるんです」
川崎作品が「誰も追随できない」と言われたのはその視点ゆえだ。
スライス·オブ·ライフ”という生活の一断面を切り撮るアメリカの手法から始まった日本の広告シーンに、異なるベクトルを持ち込んだ。
「結果としてそれまでのやり方を一切無視したことになりますか。世界の広告賞なんかではまったく通用しない、日本の文化圏でしか理解されないものを作ってましたから。CMを変えたと同時に、荒らされたという同業者の声も一部にはありました。でもそれが世の中で受け入れられたのは、面白いと思ってもらえたことと、実際に物販と結びついていたからでしょう。たとえばビールの宣伝なら、オンエア前に酒屋のおじさんに向けたティーザーを作り観てもらうんです。そこで『つまらない』と言われたらやり直し。作り手が良くできたと思っても、世の中的にはそっちの方が確かだったんです。わかりやすかったですね」
その制作手法を言葉にするなら「離れ小島ですよ」と笑う。
自分ひとりで始め、始末すら自分ひとりでつけたものだと。
「広告の流れから見ると、僕が辞めてからその島に上陸した人は誰もいなかったんです。虚しさや空白、無意味さ、僕の表現のなかにはどこかにそういうものがあるんだと思うんです。CMに笑いを求めた仲間の制作者はたくさんいたわけだけど、その虚無感は共有できなかったような気がします。僕は本質的にはマイナーでペシミスティックな人間。でも広告ですから、広めるためにはマイナーな笑いをどこかでメジャーに転換しなくてはいけない。そのテクニックを広告作りの集団の中で見つけたんだと思います」
振り返って川崎さんの80年代とは?
「本当に多くの仕事をしました。好きでしたから、一生懸命、楽しんでやってましたよ。わがままなせいで一緒にやる相手も限られていましたが、感覚を共有できるプロフェッショナルとのいい出会いがたくさんあった」。
仲畑貴志、大森昭男、忌野清志郎、坂本龍一、近くでともに歩んだクリエイタ
ーもまた広告史に名を記す人ばかりだ。
「エポックな人と仕事をできたこと、それこそ奇跡みたいなものだと感じています」