フレンチカルチャーと90年代の渋谷系。
’80年代終わりの東京で生まれ,’90年代に育まれた日本独自のカルチャーである「渋谷系ムーブメント」。
音楽業界では語られることの多いこの不思議で異様な時代をフアッション目線で堀り下げる案内役はもちろん、渋谷系を盛り上げた当事者であり、いまだにそのキラメキが止まない、永遠のセプンティーン、カジくんっ!
フランス好きの若者がたった2人で世界を変えてしまった。
’80年代後半~’90年代に東京を中心とした日本独自のカルチャーであり、一時代を築いた、”渋谷系”と呼ばれる局地的ムーブメント。
ネオアコ、ギターボップ、スウェディッシュ・ポップなど、音楽を中心に語られることが多いが、ことファッションにおいても、日本におけるフレンチカジュアルを一般層にまで浸透させた功績は見逃すことができない、 いまでは、定番スタイルとされている、アニエスベーのボーダーTシャツやベレー帽、そしてスナップボタンが小刻みに施された 「カーディガンプレッション」は、まさに”渋谷系の正装”だった。
そして、そんなムーブメントの立役者は海外ブランドや大手セレクトショップなどではなく、あるミュージシャンかルらはじまったと、当時、渋谷系ムープメントの渦中にいたカジヒデキさんは振り返る。
現在のようなフレンチカジュアルスタイルを僕の周りで初めて取り入れたのは、間違いなく、 小山田 (圭吾) くんや小沢 (健二)くんの2人でした。
’80年代後半に彼らはフリッパーズ・ギターを結成して、当時’60年代のフランス映画や音楽にものすごく興味を持っていたので、ファッションにおいてもそういった要素を取り入れたんだと思います。
僕も彼らとは当時から仲が良かったので、アニエスベーのボーダーTシャツやカーディガンプレッションを着ている姿を見て、素直にいいなと思っていました。
あと、 ボトムスにはホワイトジーンズや古着のリーバイスを穿いていたりしましたね。
そういう姿を見ると’80年代にフレンチに系統して活躍したスタイル・ カウンシルのポール・ウェラ一のファッションの影響も大きかったのだと思います。
女性ではミュージシャンのカヒミ·カリイさんも当時のファッションアイコンとして、同性にもすごく人気がありましたね。
特に小山田くんは、フリッパーズギターを結成する前のロリポップ・ソニックというバンドをやっているときから、ずば抜けてファッションセンスも良くて、海外のパンクやニューウェーブの影響を受けた、可愛くて新しい独自のスタイルを確立してたように思います。
それも単なるコピーじゃなくて、どこか小山田くんのアレンジが上手に加わってたり、時代時代のエッセンスを取り入れる小山田くんのスタイルは、いつも僕らにとってはファッションの先生のようでしたね。
そんな彼らの当時紹介したレコードやファッションとかは、ものすごく影響が大きくて、フリッパーズは音楽誌とかよりも女性ファッション誌の「オリーブ」とかによく出てたんですよね。
実際に2人がアニエスのカーディガンやペレー帽を紹介している記事もありますし、そういう露出の仕方で普通の女子高生とかにもフリッパーズが影響力を持って、彼らの着ていたフレンチカジュアルな服装がよりメインストリームになっていったんだと思います。
ちょっとフレンチからは逸れるんですが、当時はみんなはゴルフ帽と言っておじさんが被る帽子だったバケットハットをお酒落アイテムにしたのも小山田くんなんですよ。
もちろんそのあとに僕もかぶってましたね(笑)。
だから、’90年頃はみんなベレー帽を被ってたのに、 翌年になるとこぞってゴルフ帽を被りはじめてて。
いま思うと、 トレンドがいま以上に目まぐるしく変わってましたね。
’80年代のフランス映画がリアルタイムで刺激的だった。
フリッパーズギターがデビューした’80年代の後半頃はフランス映画がすごく元気な時代だったと思います。
例えばシャルロット·ゲンズブールが出ていた「なまいきシャルロット」とか「小さな泥棒」とか、 エリックロメール監督の『海辺のポーリーヌ』だとか、ファッション的にもボーダーを着ていたり、僕らが思い描くフレンチカジュアルのイメージが登場人物の服装にそのまま反映されていたり。
僕自身、フレンチカルチャーの原体験は’83年にゴダールの「気狂いピエロ」と「勝手にしやがれ」のリバイバル上映を今はなき有楽シネマで見て衝撃を受けて以来、ヌーヴェルヴァーグにもみるみる興味を持ったりして。
当時は、 「アテネ·フランセ」とか「日仏学院」とか、小さなシネマテークもすごく盛り上がっていて、 僕ら周りだけじやなく様々な年齢層の人たちがヌーヴルヴァーグに興味を持っていたんだと感じました。
そのリバイバルの同年末には、六本木に 「シネ·ヴィヴァン」という、アートシネマなどを多く上映するミニシアター系の元祖みたいな映画館ができて、確かそのこけら落としがゴダールの『パッシヨン』だったと思います。
フランス映画と言えば、’50年~’60年代のヌーヴェルヴァーグの印象が強いですけど、 同時代を見てもすごく活気があったんですよね。
レオス·カラックスは、ヌーヴェルヴアーグの再来、 とも言われてましたし、ホームビデオなどのソフト化がまだまだ進んでなかった頃でしたから、ゴダールやトリュフォーなどのヌーヴェルヴァーグ映画を見られる機会は貴重だったので20代の僕らのは、リアルタイムでカラックスの『ボーイ·ミーッ·ガール』や『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』とかを見て熱狂していました。
『シャルロット・フォー・エヴァー』 も日本で公開されたのが’88年だったので、同時期にそういったお酒落心をくすぐるようなフランス映画にも出会えたのも大きいですね。
専門学校に通っていた’87年は僕の中でいろんなカルチャーが開けていったような気がします。
その年に見た『エリザとエリック』という映画は、それほど有名じゃないんですがアヴァンギャルドな題材をポップに取り入れた映像やストーリーが強烈に印象に残っていますし、この頃からネオアコに興味を持ったり、ファッションにおいてもロメオ・ジリのコレクションが最初に注目されたような時期で。
たまたまライブハウスで目撃したロリポップ・ソニックのファーストライブで小山田くんに出会ったのもちょうど同じ頃でした。
’60年代の音楽がなにより’90年代だった不思議な時代。
僕らが受けたフレンチカルチャーの影響において、まず映画は多大なものでしたが、それと同時にフランス音楽にも当然興味を持ち始めて、映画のサントラはもちろんですが、個人的にはLes Rita Mitsouko( リタ ミツコ)の影響は大きかったと思います。
リタ・ミツコはちょっと変わったニューウェーブポップバンドで、はじめに知ったのは、たしかピーターバラカンさんが司会を務めていた音楽番組『ザ・ポッバーズMTV』。
’86年にセカンドアルバムを出した頃のリタ・ミツコのPVとインタビュー映像を見たんです。
それですぐに気になっていたところ、ちょうどその頃に上映されたゴダールの映画 『右側に気をつけろ』に、リタ·ミツコがレコーディングしている風景が出てきて、とても嬉しかったのを覚えています。
「自分が注目したバンドがゴダールの映画にも出てる!」って(笑)。
僕にとってのフレンチポップとの出会いはまさにリタ·ミツコなんですが、その後、’89年頃から周りも’60年代のフレンチポップに興味を持ち始めて、それこそフランスギャルとかジェーン・バーキンとかセルジュ·ゲンズブールとか。
自然な流れといえばそうなんですけど、音楽が加わることでよりフレンチムードが盛り上がった感じはありましたね。
とにかくフランス·ギャルはみんな大好きで。
一番有名な赤いセーターを着たジャケのベスト盤は、その後、渋谷のゼストというレコード店で働いてたんですけど、恐らく一番売ったんじゃないかな?
そのくらい爆発的に売れました。
’60年代のポップスターではありますが、ある意味最も’90年代を象徴するレコードだったかもしれません。
フリッパーズ・ギターが解散直後にアルバム3枚を同時にアナログ化したんです。
限定枚数生産で全然他の店には全然ないのに、昔からのよしみでゼストには100枚ずつくらい卸してくれたんですよ。
そのお陰か、ゼストにはいろんなお客さんが来るようになって、ピーク時には小さな店内にすし詰め状態でみんながレコードをディグってたりしてて、なかには女子高生とかもいましたし。
そんな “普通の子”までレコードを掘るような異常な時代を作ったのも、やっぱりフリッパーズ·ギターの2人と「オリーブ」の影響であることは間違いないです。