阿佐ヶ谷・高円寺・書簡演劇・寺山修司

フレンドリック・ブラウンの小説に、ある男に見知らぬ差出人から毎日手紙が届き、それによって次第に人生が変わっていく、というのがある。
私もまた、そうした手紙の差出人になって、平和な家庭に一つの虚構を持ち込んでみたいと考えた。
ある連続した現実原則に、異物を挟み込むことによって、その原則に別の転回点を与えることが劇化であり、原則の偶然性を想像力によって再組織してゆくのがドラマツルギーとするならば、これもまた演劇の一形態に他ならないからである」
この「ノック」の中で私の担当した「書籍演劇」の前白である。

「杉並区成田東4丁目37番地 銭湯における事件」

ある晴れた日に配達される、全く身に覚えのない一通の手紙が、謎解きと逆日常化への想像力をかきたてたり、スキャンダラスの要因となったりする。
俳優も観客もない「演劇」ではない。
手紙の受取人が、その両者を兼ねるアンドロギュヌス的な「もう一つの演劇行為」なのである。
ここでは俳優であり、観客であり、同時に市民でもある多数の人々が登場してくる。
そして「鉛筆で書くことによって生み出されるワニを、日常の現実の中で殺すことはできない」という虚構の神話を否認し、現実とフィクションという二次元論的な対立を過去の遺物化してしまう。
身に覚えのない人からの一通の手紙が、「迷惑」から「スキャンダル」へと情報の中で社会化され排除されてゆくか、「遊び」または演劇として日常の現実の別の別の法則へとたぐりこまれてゆくかは、受取人の選択だが、少なくとも「ノック」は、投稿されて、演劇化されることになるのである。
見知らぬ人同士を出合わせる手紙、本人自身からとどく身に覚えのない手紙、夫に向かって言うべきセリフを同封した手紙、十日後の訪問を予告し、一日一行ずつ自己紹介しながら毎日配達されてくる手紙。
「書簡演劇」は、その上演過程の中では、のべ2千人の市民を「出演」させて実現したのだった。