細野晴臣 Hosono Haruomi
トップアイドル
細野晴臣はバンド活動やソロ作品を通して自身の音楽を世に放ってきたが、それだけでは彼の全貌を理解できない。作曲家としてポップミュージックとどう関わってきたのか?
1970年代の細野は、小坂忠のアルバム「ほうろう」などに優れた楽曲を提供した。だがこの時期の活動は、ティン・パン・アレーによるプロデュースワークの一環としても捉えることができる。
たとえばいしだあゆみに曲を書いた「アワー・コネクション」は、「いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー」の名義でリリースされた作品であり、ティン・バ ン・アレーと切り離して聴くことが難しい。
やはり細野の作曲家としての顔をよく理解できるのは、80年代以降のアイドルポップスを通してだ ろう。YMOで多忙を極めていた頃、彼にアイドルへの曲提供を持ちかけたのは、はっぴいえんどの盟友である松本隆だった。その頃、 歌謡曲の世界でヒットメーカーの地位を確立していた松本は、作詞家おして再び細野と共作することを画策した。手始めはイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」。
YMOを思わせる、このテクノ歌謡曲がオリコンチャートで1位を獲得したことから、「作詞=松本、作曲細野」のソングライターチームが復活する。
松本はこの頃を振り返って、「歌謡曲が変わったよね、確実に」と語っている。
「歌謡曲だけじゃなく、 日本の音楽を変えたと思う」。トロ ピカル3部作、それからYMOと、 細野は歌謡曲とは無関係なところで独自の音楽づくりに邁進してきた。そんな細野の力を借りて、日本の音楽界に変化を起こすこと が、松本のひとつの狙いだったよ うだ。なにしろふたりは、はっぴ いえんどで日本語のロックを打ち 立てたコンビなのだから。
続けて彼らが取り組んだのは、 松田聖子の楽曲だった。松田聖子 はその時点において、10曲連続で シングルチャートの1位を獲得するトップアイドルだった。そのため連続記録を途絶えさせてはいけないという重圧が細野にはかかっ た。彼が彼女に書いたメロディー は、のっけから転調を繰り返す、 アイドルポップスとしては難度の高いもの。それでも彼女は難なく歌いこなし、この「天国のキッス」は1曲連続のチャート1位を記録する。松本は、こんな曲がヒット チャートに入ることは珍しいと言う。「明るくて、爽やかで、いっさいウェットさがない。そういうものをつくれる細野晴臣は本当に超一流なんだよね」
細野は松本とのコンビで、引き続き「ガラスの林檎」や「ピンク のモーツァルト」といった松田聖 子の曲をつくり、また同名映画の テーマソングである「風の谷のナウシカ」を手掛けた。「風の谷の ナウシカ」も、かなり難しいコード進行でつくられた、一筋縄ではいかない曲だ。この時期の楽曲提供では、レコーディングスタジオ に到着してから曲づくりを行うような、常人には決してできない芸当を細野はたびたび見せた。
だがそういった作曲の仕事は、 実は自身のために曲づくりをするより束縛がなく、楽しいものだった。アイドルや、他のミュージシャンへの楽曲提供を通して、細野が具現化させたのはメロディーヘ の愛着だ。彼は古き良き時代のアメリカのポップスや、幼い頃に聴いていた日本の唱歌の影響を、自 身のつくるメロディーに反映し た。薬師丸ひろ子のアルバム「花図鑑」に収録した「紅い花、青い 花」や、裕木奈江のアルバム「旬」 に収録した「青空挽歌」などは、 そのメロディーが普遍性を持っている。それは常に革新的だった、 細野の音楽活動とは対照的に感じられるかもしれない。しかし彼は こう話している。「もともとメロ ディー好きですから(笑)」
アイドルとの関わりとして、楽 曲提供以外にも注目したいのはポ ーカル参加だ。中川翔子に曲を書 き、なおかつデュエットした「 ネコブギー」や、原田知世のアルバ ム「恋愛小説3~You & Me」で 彼女とデュエットした 「A Doodlin Song」は、ボーカリストとして 円熟した、いまの彼でなければできない唯一無二のコラボレーションのかたちだろう。
サンディー
プロデュースも手掛けたニューウェイヴ作、アイドルポップスを 前夜のYMOに連なるテクノアルバム。
松田聖子
1983年
ソニー・ミュージックレーベルズ
コマーシャル用に制作したインスト 曲がモチーフ。そこにメロディーを加え松田聖子 の代表が完成した。
安田成美
1984年
映画の主題歌として発注されながら、なぜかテーマソングに。安田成美は同作のイメージガールだった。
裕木奈江
1993年
松本隆の作詞で本アルバムには2曲を提供。なかでも「青空挽歌」を細野は自身の歌謡曲の完成形と称する。