ウェストコースト・ロック West Coast rock

キャプテン・ビーフハート Captain Beefheart

キャプテン・ビーフハートの傑作アルバム『トラウト・マスク・レプリカ』はダダイズムの極地か、それとも60年代の過度なサイケデリックのパロディか問われます。
リハーサルを嫌い、シンコペートしたリズムを好んだドン・ヴァン・ブリートの奇怪なソングライティングは見ものです。
一聴しただけでは非常に理解し難い音楽だが、評論家の間では太鼓判を押された上、それはモダン・ロックに計り知れない影響を与えました。
ビーフハート直伝のミュージシャンにはトム・ウェイツらがいますが、ドン・ヴァン・ブリート作品と共通項がないと思われるアーティストでも、彼に深く感化されたと自認する人は多いはずです。

ヴァン・モリソン Van Morrison

彼は最初から、一時的な流行を無視することによって、時間の流れを超越した作品群を発表してきています。
作品はソウル/フォーク/ブルース/ジャズ、そして自身のルーツでもあるケルト・ミュージックをミックスしたものです。

リトル・フィート Little Feat

ローウェル・ジョージが所属していたリトル・フィートは、70年代から80年代にかけてもっとも人気のあるカリフォルニア南部のルーツ・ロック・バンドのひとつでした。
各メンバーの技術レベルが高くバンドとしての質も高かったためプロ根性に徹したカントリー・ロック・バンドという印象を与えたことも多かったが、実際にはブルース・ロックやカントリー・ロック、そしてパーティーにうってつけのブギ・ロックなど、ルーツ・ロックのあらゆる側面をカヴァーしました。

ライ・クーダー Ry Cooder

この学究肌のギタリストが自ら曲を書くことは皆無ですが、アメリカの伝承曲、古いロックンロールやR&Bをカヴァーし再構築する手腕は、他の追随を許しません。
また、ハワイアンやキューバ音楽などワールド・ミュージックにロック・ファンの目を向けさせた功績は大きい。
フォーク・ソング/ブルース/カントリーなどや、人々が忘れていた民謡を探し当てては、ロック的なアレンジを施したり、ハワイ、メキシコの音楽と掛け合わすことで新しい生命を吹き込みます。
さらに、映画音楽の世界にも進出し、スライド・ギターを効果的に使用したアンビエント・ルーツ・ミュージックとでもいうべきサウンドを構築します。

ウォーレン・ジヴォン Warren Zevon

70年代のシンガー・ソングライター・ブームの申し子だが、その中でも飛び抜けて硬派な存在として知られます。
サウンドはシンプルながら、ドスの効いたダミ声と歯に衣着せぬ辛辣な物言いから、デビュー時にしてすでに危険人物視されていた部分もちらほらでした。

トム・ウェイツ Tom Waits

トム・ウェイツは気まぐれな、「酔いどれ詩人」。
バラード歌手、世の中の不条理を説く語りべ、エレクトリック・ブルースのミュージシャン、官能的な弦楽器のアレンジャー、救世軍バンドのリーダー、舞台劇の作曲家、そしてインディーズ~ハリウッド映画の俳優など、活動範囲は実に多彩です。

リンダ・ロンシュタット Linda Ronstadt

カリフォルニアのカントリーとフォーク・ロック・ムーヴメントの中で意気揚揚と活動を開始したリンダ・ロンシュタット。
ルーツ的なフォークから滑らかなカントリー/50’sロック/R&B/そしてニュー・ウェイヴへとゆっくりシフトしていった70年代のアルバムの数々は、最高のセッション・プレイヤーが名を連ねている。

ジョニ・ミッチェル Joni Mitchell

20世紀に確立された“ウーマン・ミュージック”の草分け的存在。
彼女の数々の偉業が、女性シンガー・ソングライター・ブームのきっかけになったといっても過言ではないでしょう。
天才ミッチェルの名を世間に知らしめたのは、なんといっても71年に発表した『ブルー』です。
心の浮き沈み・怒り・悲劇・癒しといったさまざまな感情をしたためたこの作品は、御大ボブ・ディランをもいたく刺激します。
それは、彼に「ブルーにこんがらがって」というナンバーを書かせるほどでした。
ジョニ・ミッチェルの作品はどれも実験的遊び心と飽くなき好奇心に満ちています。
そして、その探究心は一握りの可能性を求めて弾き語っていたかつての日々となんら変わることなく、彼女の音楽に反映され続けているのでしょう。

イーグルス EAGLES

70年代にイーグルスはもっとも成功したバンドの一つ。
もともとメンバーたちは、リンダ・ロンシュタットのアルバム『シルク・パルス』で演奏するセッション・ミュージシャンを探していたハリウッドのプロデューサーに見い出されました。
当時のラインナップはドン・ヘンリー、グレン・フライ、ランディ・マイズナー、そしてフライング・ブリトウ・ブラザーズのバーニー・リードン。
彼らの音楽は確かに複雑なプロデュース過程を経て作られた商業的カントリー・ロックかもしれませんが、タイトでメロディアスな4部編成のヴォーカル・ハーモニーの魅力は特筆に値します。

ジャクソン・ブラウン Jackson Browne

68年にニッティー・グリッティー・ダート・バンドに短期間在籍したのちアメリカ東海岸へ行き、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジで偉大な故ティム・バックリーのバック・バンドのメンバーとなり、同年、ニコのアルバム『チェルシー・ガール』に曲を3曲提供しました。
その後カリフォルニア州に戻りしばらく不遇の時代を送ったジャクソン・ブラウンですが、バーズとリンダ・ロンシュタットに曲をいくつか提供したのち、ようやくデヴィッド・ゲフィンのアサイラム・レコードとの契約に至ります。
72年にリリースされたソロ・アルバム第1作目『ジャクソン・ブラウン』は高い評価を受け、「ドクター・マイ・アイズ」はただちにシングル・チャートで大ヒットとなります。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル Creedence Clearwater

グラム・パーソンズを例外とすれば、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルほどアメリカ音楽に影響を与えたバンドはいない。
スワンプ・ロックやカントリー・ロック、ヒルビリー・ソウル、それに南部のR&Bの要素も取り込んだ彼らのサウンドは、他のバンドには出せないユニークなものでした。

ドゥービー・ブラザーズ  The Doobie Brothers

その音楽性は大きく2つの時期に分けることができます。
それは、前期のギター中心の<ストレートかつ豪快な西海岸ロック>、そして後期の<キーボードが主体となったAOR/ブルーアイド・ソウル>路線。
初期はトム・ジョンストン(vo&g)がリーダーシップを取り、R&Bとカントリーを混ぜ合わせ爽やかで歯切れのいいロックン・ロールを展開。
「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」「ブラック・ウォーター」などのヒット曲を生みます。
しかしジョンストンが病気により活動に支障をきたすようになり、新たにマイケル・マクドナルド(vo&key)を迎えることになります。
彼はサウンドにソウルやジャズのテイストを持ち込むとともに、次第にリーダー・シップを強めていきます。

ポコ Poco

ポコは、腕利きと呼ばれるミュージシャンが多く在籍していたにも拘らず、過小評価されたグループです。
メンバーが常に流動的であり、グループ脱退後にソロで大成する、といったイメージばかりがクローズアップされ、音楽的本質で語られることは少ない。
ウエスト・コースト・ロックに、カントリー/R&B/ジャズ/ソウルを取り込んだポコの柔軟な音楽性は、現在においても輝き続けている。

バッファロー・スプリングフィールド Buffalo Springfield

多大ななエゴをもつメンバーが多いほど、グループは活動を持続させるのが難しい。
しかし、拮抗する才能が緊張感を生み出し、素晴らしい作品を生み出すことが多々あるのもまた事実。
スティーヴン・スティルスとニール・ヤングという双頭を擁したバッファロー・スプリングフィールドは、2年という短い期間にアルバムを3枚発表。

クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング Crosby, Stills, Nash & Young

神々しいハーモニーとメロディアスなフォーク・ロックを繰り出すクロスビー、スティルス&ナッシュは、ザ・バーズのデヴィッド・クロスビー、バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、そしてホリーズのグラハム・ナッシュという錚々たる顔ぶれの集合体です。

ドアーズ The Doors

「知覚の扉が清められれば、あらゆるものが無限に見えるようになる」――オルダス・ハクスレーの言葉とウィリアム・ブレイクの詩の一説を引用して命名されたドアーズは67年にデビューし、ロックに文学を取り入れるという斬新なスタイルで、60年代のサイケデリック・カルチャーに多大な影響を与えました。

ママス&パパス The Mamas & the Papas

60年代初期にグリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーンで活躍していたジャーニーメンのジョン・フィリップスを中心に、その妻ミシェル、マグワンプスのキャス・エリオット、デニー・ドハーティによって結成されたママス&パパス。
65年に発表した「夢のカリフォルニア」が大ヒット、その後67年までに6曲を全米トップ10へ送り込み、一気にスターダムへと昇りつめた。

グレイトフル・デッド  The Grateful Dead

1960年代のヒッピー文化、サイケデリック文化を代表するアーティストです。
アメリカ西海岸のサンフランシスコ、ヘイト・アシュベリー地区を中心としたヒッピー・シーンが開花し、グレイトフル・デッドは誕生しました。
グレイトフル・デッドのサイケデリック・フォークと流浪のライヴ人生は、ポピュラー・ミュージック史上もっとも大勢のカルト・ファンをもつバンドへとのし上げた。
デッドヘッズと呼ばれる熱狂的な追っかけファンが多く、ヒットチャートとはほとんど無縁の存在ながら、毎年のようにスタジアム・ツアーを行い、常にアメリカ国内のコンサートの年間収益では一、二を争う存在。
彼らは一種の文化であり、それは音楽以上にアメリカ各地へ飛び火しました。
親しみやすいジャム・セッション、幻想的な曲、そして違法コピー(海賊盤)にも寛容な精神を示し、インスピレーションを受けた熱狂的ファンのコミュニティはバンドのツアーの先々へ共に移動し、何年も前のコンサートで録音されたカセットなどを交換し合います。
これらの海賊盤は録音状態も良好で、マスタリングとイコライジングに手間をかけたと思われるものが大半を占めます。

ジェファーソン・エアプレイン Jefferson Airplane

「ジェファーソン・エアプレイン」は、アメリカン・ロック・シーンの黎明期から活動を始め、1960年代後期にはカウンター・カルチャーを象徴するバンドのひとつになりました。
享楽的なラヴ&ピースを掲げたサイケデリック・シーンが猛威を奮う60年代後半のサンフランシスコ。
そんな中、ドアーズ、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスと共に、一時代を築いたのが、このジェファーソン・エアプレインです。
1960年代に吹き荒れたビートルズ旋風/ブリティッシュ・インヴェイジョン、その影響下で続々と誕生したアメリカンバンド第一世代を代表するグループ。
反体制や薬物体験を歌った歌詞などにより、60年代カウンターカルチャーの申し子とされます。
また、ドラッグカルチャーやライトショウを駆使したステージに象徴されるサイケデリアの時代にバンドは最初のピークを迎えたというイメージからか、日本では単に「サイケデリック・ロック」の代表格として語られます。

ウェストコースト・サウンド ウェストコースト・ロック West Coast sound

1960年代後半のサマー・オブ・ラブの時代にドラッグ、ヒッピー文化の担い手、伝搬役として活躍した一群(ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドなど)を指す場合もあれば、、1970年代以降に商業ベースで成功を収めた大衆的なアーティスト(イーグルス、リンダ・ロンシュタット、ドゥービー・ブラザーズなど)を指す場合もあります。
社会背景は、当時のサンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治的意思表示の中心地、ヒッピー革命の本拠地と見做されていました。
デトロイトやニューアークでは、アフリカ系アメリカ人に対する人種差別に起因する暴力沙汰がありました。
この状況は後に「長く熱い夜」と呼ばれます。
ジャクソン・ブラウンやジェイムス・テイラー、ジョン・デヴィッド・サウザーといったシンガーソングライターたちを指して使用する場合もあり、音楽形態としての統一的なフォーマットを指しているわけではありません。