戦後のファッション 1950,60,70年代

街の派手な若者達。昔からそうゴロゴロといたわけではない。当時、流行といえば映画スターや歌手の着ていた洋服のことであり、アロハシャツなんてやくざ者だった。しかし60年が近づく頃、街にはやっと自己主張する若者達が現われ始めていた。

戦後の若者ファッションは、世の中の生活が安定してきた昭和30年代初頭からアメリカ文化やその他の国々の影響をもろに受けていました。
といっても映画スターや人気歌手がスクリーンや舞台で着ていた程度。
街にそんなフアッションが溢れていたわけではなかったのです。
子供は子供らしく、学生は学生服、勤め人は背広と、その頃は非常に分かりやすい時代でありました。
それゆえ、ちょっと違うスタイルを好む一派は「太陽族」「カリプソ族」 「ビート族」などと呼ばれ、 愚連隊 (不良ややくざの事) 扱いされていたのです。
しかし、そんな風に大人達から白い目で見られることが逆に反抗的な一部の若者達に支持され、マスコミで話題になればなるほど広まっていきました。
そのためかこの50年代中頃のファッションは、永遠不滅の反逆のイメージを感じさせるものでありました。
70~90年代の流れの中で幾度かリバイバルをくり返したのも、ルーツとしての本物の魅力を持っていたからこそでしよう。 モダンジャズとファンキーな黒人に影響を受けた「ビート族」、南国の解放的気分の「カリプソ族」、オートバイに革ジャンのロカビリー野郎達。
いずれもまだ現代に存在したとしても不思議ではなく、かえって今よりも本物の、反逆精神あふれたファッション感覚を持っていたといえるのでは・・・・・。
夏の浜辺で寄り添う2人。 開放的な夏にこんなスタイルはいかが。
目が覚めるようなプリントのシャツ、襟のリバーシブルが若さを感じさせてくれます。
女性のマドラス・チェックもイカス。
カリプソ娘こと浜村美智子のこのスタイル、これでも当時は結構ショッキングなファッションでした。
どこか南国を思わせるポンチョ風上着がその後のヒッピーを思わせます。


麦わら帽子にスリムなパンツ、ぺったんこの靴がカリプソ風かは不明ですが、開放的な感じはしますね。
彼女の歌う遠いジャマイカのヒット・ソング「バナナ・ボートソング」はゴキゲンでした。
『ファンキーハットの快男児』って映画のシリーズに主役で登場した千葉真一 。


ファンキーハットといっても夏用の帽子に派手な布地が巻いてあるだけ! まぁいかにもチンピラルックといえないこともないけど当時はそれなりの深い理由があったんでしょう。
帽子はお洒落というより常識だった時代 、こんなのかぶってる奴はやっぱフアンキーだったんでしょう。
「太陽族」としてその中心的存在だった石原裕次郎も、湘南をイメージさせるフアッションで若者達をリード。
後の若大将こと、加山雄三のアイビー調とは違い、ひとつ間違えるとチンピラ風になってしまう反抗的ファッションでした。


ハンチングやボーダーのポロシャツ、アロハ・スタイルに白いラバーソールの靴など、普通の人が着たら陳腐になってしまうようなことを見事にこなしていました。
また彼を含む当時の日活アクションスターは、背広やコートをラフに着るかっこ良さを教えてれくれたのです。
白い靴下、とんがった革靴、くしゃくしゃのトレンチコート、サングラス、黒や赤のネクタイなど日活映画のヒーローやアウトローのスタイルは、映画を通して日本全土の著者のファッション意識を目覚めさせていったのであります。
こうした50年代の流行は何年もかけて一般的になっていきましたが、それでも一部の若者達、金持ちや遊び人の間に限られていました。
大学生が学校へ行く時以外でも学生服を着ていた時代なのです。
男も女も自分達のファッション感覚を自由に表現し、自主張を始めるのには、もう少し、60年代に入るまで待たなくてはなりませんでした。