美容師ブログ 第2章 インターン時代からスタイリスト合格まで③

2023年現在、高円寺でオーナー美容師をしています。
東京の窪田理美容専門学校を卒業し、インターン(今はこの制度はありません)から美容師を約30年近くしています。
これから、僕の美容室が気になって来店するお客様のための動機の一つの「どんな美容師さんなんだろう?」という経歴、人柄を来店前に理解してもらうという事と自分の歴史の一つに「プロフェッショナルの美容師育成のスクールの先生時代」があるため、美容師を目指す人の参考になればという思いがあり、書き進めようと思います。


2000年代の美容室apishさんの写真は当時、ヘアカラーはオレンジが主流でした。
透明感のある西洋人のような無彩色は最近の流行。
美容室MINXさんはサイバーな雰囲気でかっこよかった。

変えるべきことと変えない事

僕にとって2023年は昭和の悪い伝統と新しい飛躍の令和のはざまの年でした。
職人・伝統の技術の継承は日本の美しく素晴らしい所。
しかし、伝統とはその当時の人々の時代感やモラルから生まれたものです。
そのエッセンスは時代を超えて受けつがえるべきですが、表面上の形だけの真似事は人々を不幸にすることもあります。
2023年は芸能事務所ジャーニーズの性的虐待疑惑。
宝塚での自殺。
日大アメフト部の廃部問題。
この問題は日本の乗り越えなくてはいけない大問題です。
本当の伝統の意味は先輩や年上の経験者が、後輩を一人前に独り立ちをして先輩以上の人間に成長をして社会や人々を豊かにできる人材に技術・経験を伝えるのが目的だと思います。
それが人の傲慢や慢心によって、立場を利用して人を傷つける人がいます。
絶対にこのような行為を許してはいけません。
その最悪な形が現在のウクライナ戦争やイスラエルの戦争・また日本の大日本帝国時代だと思います。

1990年代の習慣や常識

僕の1年生の時の話です。
90年代の日本には転職というものがほとんど存在しない時代でした。
日本の政策で終身雇用・年功序列で途中で会社が変わることは使い物にならず捨てられたと判断された時代です。
退職金も勤続年数に比例していて、転職すると生涯の収入が減少するように作られていた。
美容室にはきれいに1年生から、2・3・4・5と先輩が連なっていました。

変わりますっ!

美容室は効率的に組織されて、自分より仕事ができる人にはフロアーを走って行って「変わります!」といって、仕事を代りに行っていた。
殆どの場合はありがとうといって変わるのですが、いかにも不満そうに「遅いんだよ!」みたいな態度の先輩もいらっしゃいました。
だから、常に緊張をして頭をフル回転しなければならない。
例えばAという先輩がシャンプーとカラーの仕事ができて、Bという後輩がシャンプーしかできない状態で、Aがシャンプーに入った場合フロアーでカラー塗布のお客様がいる場合、Bがシャンプーしかできないので効率面でこの制度が存在していた。
常に、「変わります!」の連続でフロアーを走り、遅いと”睨み”の返事が待つ(怖い)。

5番というお昼の買い出し

美容師の世界でとにかく厳しかったお昼の買い出し。
美容師の営業中は常に緊張を強いられ、フロアーに何人のお客様がいて一人一人のお客様が今現在、何の施術を誰が行い、あと何分で終わるか考え、今自分の施術しているお客様を何分で終わらせるかを考えながら仕事をしなければいけない。
だから、フロアーを抜ける場合にはスタッフに知らせる必要がありました。
大きな声で1番入ります!2番入ります!3番入ります!
暗号を決めて意思疎通を図っていた。
他は忘れてしまいましたが、憶えているのは”ご飯の5番”。
お昼ご飯を食べるタイミングを今いるフロアーのお客様を見て、自分が抜けてもお客様に不都合がないと判断したら”5番入ります!”とお昼を頂きます。
僕は同期が3人いたから同時に入ることはなく順番に入っていた。
12時の時もあれば、15時の時もあり18時の時も食べられない時もありました。
だからこそ、チョコレートは大切。
お昼の買い出しは同期で順番でしたが、10人以上のスタッフのランチを一人で30分くらいで買わなければいけません。
営業中にスタッフ一人一人に”5番お願いします!”とメモ帳片手に聴きに行き、近くのスーパーやコンビニに行き、その中には食事以外に煙草や2リットルのペットボトルも含まれます。
営業後はスタッフからお金を徴収するのがまた、時間のかかる仕事でした。

教える事、教わる事

僕が経験した90年代の美容業界は見て覚えるが第一前提。
解らないことがあれば聞いたり、夜に残って貰い教わる。
何店舗か美容室を変わりましたが、教育は各サロンで試験制度となっていてシャンプーからヘアカラー、ワインディング(パーマ)、カットなどその時代感を反映した教育です。
お店ごとに一貫しなければいけないこともあり、お店を変わると基本的にはそのお店のやり方に合わせます。
週に一度練習会があるお店、ひどいお店になると練習会が存在しないお店もあります。
お店自体が新人を教育する意思がなく、常に若いアシスタントを補充だけを考える(AKB卒業方式)店舗もあります。
僕はのちにプロの美容師さんのスクールの講師に4年ほど在籍(萩原宗マスターズスクール)するのですが、北海道から沖縄までいろいろな年代の美容師さんと交流しましたが、本当に環境が劣悪なお店があります。
話が逸れましたが、僕が豪徳寺で働いていた時の最初に先輩から教わる心構え(多分今ではNGのパワハラとして訴えられるかもしれない当時は当たり前)をお話しします。
僕が2,3年目の順調に練習課題をクリアーして最後のカット練習が開始されるとき、ある先輩のカットがとても速く、美しいフォルムのヘアスタイルを作っていたのでカットを教えてほしいと頼みました。
最初にその先輩がどのように美容師の仕事を教わってきた経緯を僕に話されました。
僕は当時給与が手取りが13万円、先輩は8万円だったそうです。
美容師の業界の練習は当時ほとんどが始業後の夜か仕事前の朝になります。
営業中に練習会を設けるサロンも出てきましたが、かなりの少数派。
先輩は夜ご飯代を教えてくれる人に提供して、教えてもらっていたそうです。
真剣に技術を教える分、真剣に学ぶ姿勢で受けてほしいと言われました。
先輩にも家族や友人との交流もある中で、僕一人の為に無償で営業後に教育を受けられるので、心構えだけはしてほしい。
今ではちょっと重たい、怖いなぁと思うかもしれませんが時代ですねぇ。
今の60歳以上の先輩美容師さんに教育面の話をすると、ほとんど基本だけであとは自分で考え勉強しなさいという話しです。
今現在の、しっかりと学生時代から先生や塾で学んで合格を受けてきた世代の人とはこの辺りがサラリーマンの方や職人、サービス業の世界でギャップとなり、問題や論議になっているものと思います。
自分以上の美容師さんになってほしい、その思いが大切だと思います。



ここで、僕と同じ年で生涯若い美容師さんの育成に生涯捧げた美容師さんを紹介します。
彼はイギリスに渡りヴィダルサッスーンというヘアカット技術の本場に学び、日本に帰国後DADAという美容室をオープンし、常に現在の日本の美容師のあり方を問い、これからの業界に情熱と流行にとらわれない確信を注ぎ込んできましたが、惜しくも他界されました。

美容室DADA CuBiC 植村隆博