資生堂 Shiseido と山口小夜子 Sayako Yamaguchi②

Revital(1979)資生堂リバイタル
1979年にスキンケア化粧品として誕生。
スキンケア化粧品の特徴成分、SAアミノ酸(生体内保湿成分)の配合で、肌の活力復活を狙うことから、「バイタル(生命の)「バイタリティ(活力)」に、接頭語の「re(再び)」を組み合わせて「リバイタル」と名付けられた。
1981年にはメーキャップ化粧品が登場。
1989年にはアロマティックやヘアケアなどの製品も含めた総合ブランドとしてリニューアルされた。
存在感そのものがメッセージ。
「クインテス」、「シフォネット」、「ベネフィーク」、「リバイタル」など山口小夜子とタッグを組み、様々な広告を手がけたのは長きにわたり資生堂の広告宣伝部長を務めたグラフィックデザイナー/アートディレクター中村誠。
「中村誠が手掛けた資生堂広告のグラフィックは、西洋的な美しさと日本的な美しさ、両方を大切に作られています。1970年頃は、大阪万博を機に海外でオリエンタルブームが起き、資生堂もアメリカ人の好みを調査したうえで日本調の香水を発売するなど、海外市場に進出し始めた時期でもありました。日本女性のきめ細かな肌、上品で静謐な佇まいを持ち味として世界を股にかけ活躍しだした山口さんの登場は、日本女性が、自分が日本人であることに自信を持てるようになる、という大きな意義を果たしました」

Benefique(1972)資生堂ベネフィーク
1972年誕生。
皮膚に活力を与えて水分保持力を高める成分の配合を特徴とした基礎化粧品と、メーキャップ化粧品の両方を配置した高級ブランド。
モダンなパッケージや山口小夜子が登場した広告・宣伝も話題に。
1997年からは化粧品専門店専用ブランドとして進化を遂げ、現在も愛され顔をつくるポイントメーキャップから、肌の温度差に着目した新発想スキンケアまで、多くの世代から支持されている。
「日本的」を説得力に変えて
資生堂が100年の歴史をかけて生み出したブランド、そのCMhカンヌ映画祭で賞を受賞したという「ベネフィーク」。
その後、広告制作の現場でメーキャップを手掛け、山口小夜子と親交もあった資生堂シニア メーキャップアーティスト富川栄さんに聞いた。
「70年代初めまでは、まだまだ誰もが欧米に対するコンプレックスを抱えていました。それが、小夜子の登場によって一変しました。そこからは、広告でも日本人モデルの起用がぐっと増えていきました。「ベネフィーク」の広告は、京人形そのもののような小夜子の神秘性、憂いを含んだ表情を存分に堪能できます。また「リバイタル」の広告ではすでに時代の顔となっていたこともあり、すべてを見透かしてしまうような自信あふれる彼女の表情と、肌を蘇らせるような高級スキンケアのコンセプトがぴったりマッチしました」

KYOUBENI(1976)資生堂京紅

最上の天然紅花から抽出される天然色素、カルサミンを主成分とする京紅。
磁器の紅皿に入った京紅らしい姿、磁器と同じ柄の入ったボックスが印象的。
紅筆に水を含ませて、あるいは指にとって使うと、さらりとした感触で唇に滑らかになじみ、光が当たると古典的な深い紅の色合いが美しい玉虫色に変化する。
現在も購入可能。
アイラインの無限の可能性
山口小夜子は、”ノーメークの無防備さでは姿勢や動作に張りがなくなる”という信条からプライベートでも外出する時は必ずメーキャップをしていたという。
実際の彼女の素肌は、むき卵のようにつるんとした本当にきれいな素肌なのですが、本人がメーキャップする時も黒髪に映える白肌、きちっと装うベースづくりにこだわっていました。
彼女らしい、頬に高めに入れたチークも当時のブームに。
そしてアイラインの引き方、前髪との関係性、この微妙ま駆け引きによってあの揺れるようなまなざしを生み出していました。
アイラインは日本人の黒い瞳、彼女の切れ長の目もとを強調するのに必須のメーキャップですが、ラインをほんの少し内側に入れる、上げる、下げる、より水平に、といった微細な違いによって彼女の歩き方、佇まいもまた変わるのです。
”日本人には日本人の美しさがあるのでしょ?”と教えてくれた彼女ですが、アイラインの角度がコスチュームの見え方をも操作する、といったことまで教えてくれました」

世界を魅了した黒紙と白肌
70-80年代、日本を代表する化粧品メーカー「資生堂」は日本人トップモデル「山口小夜子」をモデルに起用し芸術の域に達する数々の広告で人々を魅了した。
世にも美しい黒髪、白肌、切れ長目。


1971年にデビューするやいなや日本のファッション界の注目を一身に集めたモデル 山口小夜子。
1977年には雑誌「ニューズウィーク」で世界のトップモデル6人にアジアで初めて選出される。
彼女のモデルとしての素養の素晴らしさの一つには「黒髪、白肌、切れ長の目」という日本人らしさを最大限に生かしたルックス。
それは、彼女が幼少時から大切にしてきた「美しさの在り方」に徹したい、という強い意志の表れでもあった。
「黒い髪は、扁平な日本人の顔を引き締めるし、そういう日本人にぴったり合う髪の色を神様が決めてくださったのだと思いました」と自著でも語っています。

Quintess(1970) 資生堂クインテス

1970年誕生。
クインテス(Quintess)とは、クインテセス(精粋、真髄)の意味を込めた造語。
資生堂の技術の「粋」を集めて作られた、当時最新のお手入れ製品。
優雅な気品と女らしさを狙い、デザインはフランスルネッサンスの唐草をアレンジ。
どのアイテムも肌をしっとり滑らかに保つモイスチャーアナライザー効果を持ち、優雅に香り、滑らかなタッチ、さっぱりとした感触など使用感の良さにもこだわりを見せた。
Chiffonette(1971) 資生堂師フォネット
1971年誕生。
「まるでシフォン(うすぎぬ)を透かして見るようにしなやかでエレガントな女性に似合うメーキャップ」。
印象的なグリーン、アフリカンファッションに着想を得たモダンなパターン、繊細で斬新なロゴなど、デザインにもさまざまなチャレンジが試みられた。
繊維入りのオートマスカラや、鮮やかに発色するリップスティック、繊細な艶感のフェイスパウダーは現在も購入可能、幅広い層から愛されている。

資生堂との運命的な結びつき
1972年、アジア系モデルとして初めてパリコレクションに立つと、黒髪のおかっぱ、抜けるような白肌、切れ長の眼もとで山口小夜子はヨーロッパの人々を虜に。
「Sayoko マネキン」人形が発売されるほどのブームになった。
そして翌1973年からは資生堂の専属モデルとして「クインテス」「シフォネット」の広告に登場。
「資生堂の広告史を遡ると、戦後から写真の使用が増え、欧米へのあこがれからも、60年代まではハーフモデルがよく起用されていました。
しかし、資生堂の創業者 福原信三が提唱した「物事はすべてリッチでなければならない」に立ち返ると、外国人モデルのような小麦色の肌、日本人女性らしい白い肌、どちらにも変身できてこそリッチ、というところから山口小夜子さんの起用に至ったのではないでしょうか。