スクーター 富士重工・ラビット 三菱・シルバービジョン
スクーターの風に乗って青春はやってきた
商業者として戦後始まったスクーターも、若者の足としてランデブーにバカンスにと欠かせない乗り物になった。日本の若者にとってはベスパよりラブレッタよりかっこよかったのだ。各社勢揃いの’60年スタイルのスクーター!あなたならどれを選ぶ?
男は帽子をかぶって、女はスカーフを頭にキリッと巻いて、小粋なファッションに身を包んだ2人の若いアベックは、高速路の料金所にさしかかってもなお、誰からもおとがめも受けずノーヘル・無免許で楽しそうに走り去って行くのでした。
このうらやましい笑顔。
実は笑顔の裏には、わけがあるんですねー。
当時二輪車はというと、無免許で届け出制。 信じられない?
そしてヘルメット着用義務などという、おかたい野暮な法律ももちろん無かったんですねー。
夢みたい。
ごっついへルメットかぶって、スクーターに乗るっていうこと自体、考えてみると実は情けなかったりする。
750ccでもあるまいし、たかが原チャリなんですよ。
早い話が。でも今のスクーターとは、ちと違う。よーく見ておくれ。 この大迫力の、便器の金かくしのような流線型デザインこそ、一世を風靡した昭和のスクーター達なのです。
今も昔も、女の子にもてるようになるには、第一に車。
今や車を持っていないとお話にならないこのご時勢。
しかし今と違って、第2次世界大戦のすぐあとのこと。
そう簡単には手に入りません。
米軍による統制の元で、戦後すぐには国内のメーカーは、4輪車製造を許可してもらえませんでした。 物資の不足も深刻な折り、登場することになったのが、三輪トラックや機動力のあるスクーターだったのです。
当時のスクーターといえば、富士重工のラビットと三菱のシルバーピジョンが、2大ブランドとして君臨していました。
その2大メーカーの人気にあやかって町工場のような会社からも、続々と様々なスタイルのスクーターが登場していったのです。
しかし、今もなおたまに、街でみかける現符昭和30年代スクーターのほとんどが、富士重工のラビットであることから、昭和を代表するスクーターはラビット、 と思われている方が多いようです。
そんなラビットにも、元をたどると意外な歴史が隠されているのでした。
元々、第2次世界大戦中活躍した隼をはじめとする軍用戦闘機の名門、中島飛行機が、富士重工の前身。
米軍の管理下、平和産業への移行が進められ、一時は弁当箱や家庭金物雑貨など造っていたのですが、
敗戦後山のように残っていた戦闘機のタイヤに目をつけて、それにオマルのような鉄の固まりを合体させて、スクーター第一号が誕生したのでした。
アイデア商品というやつです。
そして昭和30年代に入って、一部プラスチックも使われはじめ、独特な流線型のスタイリングが確立されていったのです。
その中でも傑作といわれているのが、ラビットS-301。
スクーターでは初の2トーンのイカすカラーリングもさることながら、両サイドにかわいいラビットマークのアルミ製オーナメント。
今のお買物バイクからは想像もつかないほど機能的で、しかもメッキパーツ使いまくりの豪華なデザインでした。
商用に限らず、女性のユーザーもターゲットにしていたことが、当時のコマーシャルからうかがえます。
3段ギア付、2人乗り、125CC、7.5馬力、最高速度時速90㎞、発売当時13万円。
「歩ける人なら誰でも乗れる100万人の乗用車」の宣伝コピーも泣かせてくれます。
車自体のスマート化に加え、背広姿でも軽装のままでも足をそろえて乗れるスクーターの魅力は、いつの間にか恋人同士のデートに、家族で気軽にピクニックにと、その用途も徐々に商用から、レジャーへと変わっていったのです。
東京オリンピックの開催も決定して、生活にやっと余裕ができはじめた、そんな世相を反映した乗り物。
まだ交通も無く、緑の多かった街並みを、日本の若者の希望と夢を乗せて走っていたのでした。