高円寺タウンマガジンSHOW-OFF
2000年創刊、高円寺民が愛して止まない高円寺の街とカルチャーを見つめ発信する「捨てられないフリーペーパー」。3月・6月・9月・12月発行。
SHOW-OFF表紙にヒコロヒー初登場!
テレビ・ラジオ番組、 雑誌の連載、 デザインとマルチな才能を開花する「国民的地元のツレ」こと ヒコロヒーさんに大阪から東京への上京物語と高円寺のエピソードを伺いました。
―――大阪から東京へ出てらっしゃった時の話から伺わせて下さい。東京に出てきたのはいつくらいですか?
2014年とか15年とかだったと思いますね。
大阪松竹にいて移籍という形で東京に出てきて。
最初から高円寺あたりに住んでいました。
野方と高円寺の間あたりに。
チャリで新宿の劇場まで通うみたいな生活でした。
――その時は、大阪でどんな活動状況でしたか?
ライブメインの活動をしていましたね。 単独ライブがあったりとかしてたんですけど、そのタイミングでさらばさん(同じ松竹の先輩「さらば青春の光」)が大阪松竹を辞めるってなって。
すごく可愛がって頂いていたので、私も大阪松竹辞めようって感じでした。
――東京に出てきて高円寺生活はどうでしたか?
どっぷり高円寺生活って感じではなくって。
高円寺のどこに行けば良いかって分からなかったですね。
松の木食堂には良く行っていましたね。
そこはタバコが吸えてコーヒーもあってという感じで。
ネタを書いたりしていましたね。
高円寺で友達もいなかったので。
――その後の東京での芸能活動はどんな感じでしたか?
それからもライブメインで活動しながら、ちょくちょくテレビ番組にも出さしてもらってという感じでした。
高円寺駅南口のコーヒー屋さんyonchome cafeに一度先輩に連れて行って頂いて凄くお店は気に入った
んですけど、1杯500円くらいのコーヒーだったので当時の自分にはとても高くて高くて・・・あまり行けないので今日こそネタを仕上げようって日に行ってました。
―――高円寺の印象はどんなでしたか?
駅前の噴水のあたり。
喫煙所があって上京したその日に色とりどりの髪色の人たちがギターとかトランペットを持ってたむろしていて。
ザ・高円寺すぎて。
すごいビックリして。
ホンマにこんなんしてるんやって思いましたね。
そんな記憶がありますね。
―――高円寺で他の芸人さんたちとのつながりはありましたか?
全然なかったですね。
それこそ、さらばさんにお茶連れて行って頂いたり、ライブ終わりにご飯連れて行ってもらったりとかくらいでしたね。
東京に来てからほんと自力というか。
時間をかけながらでしたけど、ライブ会場で気のあった芸人さんらと軽く飲みに行ったりするようになりました。
―――高円寺のエピソードがあれば教えてもらえますか?
私ほんとお金がなくて。
高円寺に限った話じゃないんですけど、一張羅を売りに行こうと思って。
高円寺の古着屋さんに断腸の思いで洋服を売りに行ったんですよ。
後輩で服に詳しい子がいて、高円寺のここで売ったら高く買い取ってもらえますよって言われ
て。
袋4袋分くらい持って後輩と一緒に古着屋さんにけっこう良い状態の洋服を売りに行って。
量も質もあるし、4、5千円にはなるんじゃないですかって言ってくれて。
それくらいになったらちょっと当分助かるかなって思っていたんです。
洋服屋に持って行って査定が終わるまでそこら辺で茶飲んで時間潰して。
査定終わって店に戻って行ったら250円やったんです。
後輩の茶代にもなってない。
後輩に「どんな店紹介してくれてんねん!」「すんません・・・」
みたいなことはありましたね。
まあ、阿佐ヶ谷や中野に芸人が多かったので高円寺は出やすかったですね。
――スナックのアルバイトを良くされていたのを記事で読みました。高円寺ではスナックバイトされてました?
高円寺時代もしてましたね。
当時、新橋でもやってました。
――どうしてスナックで働こうと思ったのですか?
単純に他のバイトできないんですよ。
他の飲食店とか。
昼の事務とか。
起きられなくて寝坊もするし、すぐサボるし。
とにかく人間関係みたいなのが無理で。
本当にまず面接で受からないですし、受かっても全然続かないし。
水商売でその日1日飛んでもスイマセン!って謝ればいい加減にしろ!くらいで終わるみたいな。
変な言い方すれば、スナックはだらしない奴にも寛容っていうか。
だいたいすぐに怒られてクビになってましたけど、スナックにはそんなところがあって続けてきました。
お客さんともめたりしたことはありましたか?
良い人ももちろんいらっしゃいましたけど、中にはとんでもない方もいるので。
頭に来たらすぐに言い返してましたね。
アホな女が好きっていうお客さんがいるんですよ。
これ知ってるか?
って言われて知らないふりをするんですよ、ホステスたちって。
知らない〜って言ったら、ギャハハ、お前アホやなって。
それは別にいいんですけど。
あまりにエスカレートしてくると、日本の首相は誰か知っているか? 知らん。
ギャハハ。
新潟の潟って漢字書けるか? 知らん。
ギャハハって。
新潟の潟の漢字を練習させられる時間があって。
知識があるからずらせるねんで。
アホやと思うなよって言ったらママにバチギレされましたね。
―――でもスナックバイトを続けるってことは少しはスナックが好きだったのでは?
マジで好きではなかったですね。
それしかバイトができなかったですね。
―――借金のユーチューブ番組もされていますが、最初はどうやって借金が増えていったのでしょう?
いやあ、最初はもう覚えてないですよ~。
家賃、引っ越しとかのお金だったと思いますねえ。
全て払い終わったので清々しいですよ。
前は、銀行の残高を見てもそれが本当の残高じゃなくってまだそこから200万くらい借金あるもんなみたいな感じでしたから。
――芸人としての持ちネタが無くなったみたいな気持ちはないんですか?
それはないですね。
その時々の話をしますから。
その時に借金していたからその時にしゃべるだけで。
その時自分に起きたことをしゃべっていますから、しゃべる内容は変わっていくんじゃないですかね。
———雑誌 「BRUTUS」でエッセイを書かれていますが、文学作品は昔からお好きでしたか?
開高健さんが高校生時代から好きで読んでいました。
「輝ける闇」が好きで、他にも彼のエッセイが好きですね。
―――開高さんは僕も高校生時代に読み始めて好きになりました。僕は絶筆になった最後の作品「珠玉」が好きです。ベトナム・ホーチミンのマジェスティックホテルにも行ったんです。ヒコロヒーさんがこれからやりたい芸能活動のイメージはありますか?
やりたいことはあんまりないんですよね。
借金返すのが目標でやっていたので。
あとは1個1個楽しくやれたら良いかなって思いますね。
自分の生活がちゃんと出来る程度に仕事しながら。
面白い現場に沢山出られて、面白いスタッフさんと沢山出会えたら良いなと。
同世代の連中(オズワルド、鬼越トマホーク、空気階段、きつね、トムブラウン)と深夜でも良いから番組できたら良いなってずっと思ってますね。
―――芸人として売れたって実感は日々ありますか?
いや、売れたって思わないですよ、日々仕事してるだけですから。
ロケの時に人が来て下さって声をかけてくださるのはありがたいなって思いますね。
―――最近、気に入っている音楽はありますか?
TOKYO FMでラジオ番組「CURIOCITY」をやっていて、今週の気に入っている曲を番組で流しています。昔の曲もかけるんですけど、最近の韓国のロックバンドなんですけどHYUKOH (ヒョゴ)が好きですね。
ラジオは楽しいですよ。
今全部で3本やらせて頂いてます。
全部違うので使い分けてやっていますね。
―――芸能界で凄いなと思うタレントさんはいらっしゃいますか?
みんなそれぞれ凄いですよ。
大竹まことさんとラジオをご一緒させて頂いてますけどバランス感覚とか想像力が豊かで人として優しくて器の大きい方だなって思います。
さんまさんは、どの現場でお会いしてもエネルギーが凄いです。
単純にめちゃ面白いなって思います。
鶴瓶さんもずっと凄い方ですね。
―――高円寺以外だとどこか好きな街はありますか?
麻布。麻布商店街じゃなくって一本離れたようなところに飲み屋の通りがあって、麻布って聞くとお高いような気取った感じだったんですけど、昔ながらのずっとやっている商店街の個人経営の居酒屋とかずらっと並んでいるあたりが凄い好きですね。
―――コンバースとのコラボレーションはどのようにして実現したのですか?
シューズもお洋服もデザインさせて頂いてCONVERSE TOKYOさんで販売して頂いてます。
売れてない時からライブのグッズを自分でデザインしていたんです。
私がテレビに出だした頃にそれを知ったCONVERSE TOKYOからデザインしませんかとお声がけ頂いて
始まりました。
すでに去年秋冬に一度売り出してありがたいことにめちゃくちゃ売れたということで第2弾でやらせて頂くようになりました。
今日着ているTシャツも自分でデザインしたものです。