我が家にスバルがやってきた。国民車現る!

昭和34年の日本人の自動車所有率は、1301人に1台の割合いでした。
この時アメリカは既に2.6人に1台 、全世界でも30人に1台といいますから、いかに車が少なかったかおわかりでしょう。
国も自動車産業の発展なくして、日本の産業の発展はない、と大衆車を普及させる目的で、「国民車構想」を打ち出します。


そして通産育は、3~4人乗りの小型,軽量で販売価格を25万円程度とし、これに当てはまる車を試作したメーカーに補助金を出す事を決めたのでした。
その頃、25万円以下で販売できるという一項は、とても当時の小型重生産コストの概念からは遠く達成できるものではありませんでした。
しかし中島飛行機を前身とした富士重工は、昭和30年の社内会議で、その頃爆発的プームになっていたラビットスクーター2台半の重量でまとめあげることを決定。
飛行機でグラム単位の機体設計を手がけていたエンジニアだけに、他の自動車メーカーを一歩リード。
そして昭和33年3月3日、42万5千円という価格以外は国民車構想すべての条件を満たした、スバル360が登場しました。
当時輸人車を始めとする大柄なボディに馴れていた人々のど肝を抜き、その後運転性能や乗り心地に改良を重ね、1年の長きに渡って大きなモデルチェンジを行なうことなく生産が続けられたのです。
そして群馬で誕生したスバルに遅れること2年。
三輪下ラックで名を挙げた広島東洋工業から31万円で買えるマツダR360が発売されました。
小さいながらもクーペタイプの2+2、トーションバーを使ったソフトなサスペンション、そして画期的なATを備えたモデルを0Pで備えるなど、大きな話題になりました。
また、三菱500という軽自動車とリッターカーの中間を狙った車は、その目のつけどころは良かったものの中途半端な出来となり、市場での評判は今ひとつでした。
こういった軽目動車ブームはモータリゼーションの基盤を作ったと同時に、日本独目の車のジャンルを誕生させたことで、めざましい技術の発展にもつながりました。
軽目動車は一般大衆がやっとの思いで買える範囲になりましたが、人々の生活が豊かになるにつれてより大きな小型車にも目が向き始めました。
しかし税政上の優遇措置・車検が無い(なんと!)という利点から、軽は売れ続け
ていったのでした。

→スバル360 永遠に愛される、てんとう虫。

スズライト TL

当時国産乗用車て唯一フロントドライブを採用。
’63年の第一回日本グランプリ· Tクラスで1位2位を独占。
ミニに似たフロントマスクとバン形状がかわいい

三菱500 三菱が世に送り出した初めての乗用車。

空冷4サイクル·2気筒リア置きエンジン、それに4輪独立サスペンションと、先進技術満載の車だった。
クラスとしてはミニカーに属するものの、法律上は小型車として扱われる。
500ccで21馬力のエンジン、そして何よりもスバルよりお買い得の39万円という安さで人気を集めた

マツダR360クーペ マツダの傑作、日本に軽ブームをしかけた、スバリ30万円の4人乗り。

2万円高で、オートマチックも選ぶことができた。
空冷2気筒で16馬力