未来へ延びる高速道路と美しきモダン建築
’60年代初頭、東京オリンピックに向けての東京大改造は日本の近代都市化
を進めるうえでの大きな事業となったが、この都市の近代化は当然、全国の
都市へと拡大、日本全国が新しく変わっていった。
その中で新幹線の開通と共に大きな注目を浴びていたのが高速道路の建設である。
VILLA BIANCA ビラ・ビアンカ
大量·高速輸送時代に相応しい日本の高速道路を作る事が’60年以降の日本の経済成長に不可欠な事であった。
日本の都市の道路事情は決して良い方ではなかった。
’56年経済調査団をアメリカから招き調査を依頼した結果、彼らは日本の道路網の開発が遅れている事を指摘し産業道路としての高速道路を作ることを勧告したという。
こうして日本道路公団は’58年から日本最初の高速道路「名神高速道路」の建設に着手したのである。
その中京~阪神の全線開通は6年後の’64年の事であった。
それは日本の車社会が本格的になる直前の出来事。
この年の乗用車の普及率は人口58人に1台、車がまだ都会に溢れる少し前であった。
名神高速道路の開通だけでは当然、日本の道路事情が良くなったわけではなく、その後も東名、中央高速道路の建設が進められた。
’66年には建設省は国土開発新新幹自動車法案をまとめた。
これは、東北道、中央道 、北陸道 、中国道、九州道の五幹線を基本線とし、延べ7600キロの高速道路を5年計画で完成させる予定のものだった。
しかしその開発は乏しい財源などの理由で大幅に遅れ、欧米などに比べ10年以上の残れをとっていた。
その一方で車はその後も益々増え続げ、交通事情が悪化していったのである。
とはいえ美しい曲線を描く立体交差などの都市の姿を徐々に変えていく高速道路の建設はいかにも未来都市を形作る過程として国民に希望を与えるものであった。
coop olympia コーポ・オリンピア
これと同時期にまったく新しい形のピルや集合住宅が建設され、都市はデザインの表現の一つの場所として認知されていく。
それまでの建設物は重厚なおもむきを持った物が立派であるとされていたが’60年代に向がい高速路の曲線と同様、建物のデザインも大胆で未来的になっていった。
東京オリンピックの為に都内の随所に建てられた大胆な競技場や施設の影響もあったのかもしれない。
集合住宅やホテル、学校など次々に新しいスタイルを持った建物が姿を現した。
それはまるで昔のSF映画の未来都市が次々と現実化されていくかのようであった。
戦後の焼け後から20年、日本はこうして復興の道を辿り、車が多いこと以外は世界有数の都市作りを達成したのである。
こういった’60年代当時が近代的にデザインされた街として20世紀を通して一番美しかった時代だったかもしれない。
’90年代に入った日本は戦後第二次都市大改造の時期に入った。
かつてのモダンな建物が次々に取り壊されていく。
一般住宅、集合住宅、公共施設がいつの間にかピカピカの下品きわまりない建物に姿を変えてしまう。
高速道路 オリンピック
街全体が機能的ではあるが無機質化されていく。
そこにはかつて時代と調和していたモダンなセンスの香りは一切しない。
時として朽ち果てたかつてのモダンな建物に出会うと東京オリンピック前夜のあの時代の人々の歓声が甦ってくる気がするのである。
それは黄金の’60年代を迎えた人々の希望溢れる声でもあったかもしれない。
しかしそれもその朽ち果てた建物同様遠い過去の遺物となってしまった。
物質だけは溢れているこの国にはもう必要のない、ノスタルジーでしかありえないのだろうか。
建物は明日にでも取り壊されるかもしれない。
過去を振り返らず己の利益だけを追求する21世紀的日本、’60年代に別離を告げた人々には何の未練もないことなのである。