ジャン=ピエール・メルヴィル Jean-Pierre Melville

モラン神父 Léon Morin, prêtreLeon Morin, Priest

時は第二次世界大戦下。
かつてコミュニストの闘志だったバルニーは、アルプスの村に逃げ込んできた。
その村には小さな教会があった。バルニーは宗教を嘲弄してやろうと、その教会の告解室に入る。
そこには若い神父モランがいた。
心動かされたバルニーは、モランが彼女に課した償いの行を拒絶することが出来なくなってしまう。
彼女はモランの訪問を重ねていくうちに、彼を愛するようになってしまう。
しかし、モランは神への誓いを破ることができない。
やがて彼らは自分たちの運命を受け入れて、別れを決意する・・・。

リスボン特急 Un flic Dirty Money

パリの町に夜のとばりが降りると、それを待っていたかのようにパトカーの赤いランプが廻りだす。そしてエドアール・コールマン刑事の一日が始まる。
一台のダッジが海岸にうち寄せる波しぶきをかぶりながら疾走する。
車の中では、四人の男が終始おし黙ったままだった。
ハンドルを握るルイ。
その隣りに首領株のシモン。
後部にマルクと、ポール。
四人は大西洋にのぞむある小さな町の銀行襲撃のために、パリから車を走らせてきたのだ。

海の沈黙 (1947) Le Silence de la mer The Silence of the Sea

ジャン=ピエール・メルヴィル監督の長編第1作となった記念すべき作品。
原作は、ヴェルコール作のレジスタンス文学の名作『海の沈黙』。
この書物は、フランスがナチス・ドイツの占領下にあった1942年に刊行された、ドイツ占領下の抵抗文学を象徴する「深夜叢書」の記念すべき第1作だとのことです。
自身レジスタンス活動家であったメルヴィルは、戦時中からこの原作本を読んでおり、自身の最初の監督作品には是非『海の沈黙』を、という強い思いを持っていました。
同じく、映画化を考えていたルイ・ジューヴェ(言うまでもなくフランスの名優)との映画化権争いには辛うじて勝利したものの、肝心の原作者ヴェルコール本人がこの作品の映画化に猛反対したため、自主制作という形での製作スタイルを取らざるをえなくなります。
この撮影の前、彼は自らのプロダクションを作ってはいましたが、どの映画会社にも、また監督の組合等にも所属していなかったため、ほとんど役に立たなかったといいます。
つまり、この作品は、当時の映画製作システムの完全なる枠外で撮影された作品なのです。
さらに、映画完成後には、ヴェルコールが人選したレジスタンス活動家の審査委員会に見せ、もし一人でも公開に反対がいた場合はネガを焼却するという約束まで交わしていたのです。
結果、この映画の撮影は、低予算、ロケ撮影、少人数のスタッフ、たった27日間の撮影という、八方塞りのような状況の中で進行することになります。
当然、金銭的な援助もほとんどなかったため、予算も限られており、メルヴィルは闇市で古いフィルムを買って、それを撮影に使ったとも言われています。
結果、メルヴィルは、監督・製作・脚本・編集に至るまで、ほとんどの作業を一人でこなすことになります。
後々、このような映画製作のスタイルが“ヌーヴェル・ヴァーグ”という形で花開き、その結果、メルヴィルは“ヌーヴェル・ヴァーグの父”という担がれ方をされるようになりますが、この状況はメルヴィルがあえて望んでいたことではなく、そうせざるをえなかったというのが実情なのです。
映画はこのような紆余曲折を経ながら完成します。
ヴェルコールが人選したレジスタンス活動家の審査委員会も、全員が公開に賛成しました。
公開にあたっても、各方面からさまざまな妨害があったと言われますが、後には、パリの大きなロードショー館でも公開されるようになり、結果、新人映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルは、この作品で高く評価されることになりました。
そして、前記のようなあらゆる困難を乗り越えて、この作品を撮り終えたジャン=ピエール・メルヴィルという当時30歳の若者の映画にかける情熱と勇気に対し、多くの人々が心を打たれたのではないでしょうか。
この映画を観て、メルヴィルの才能に驚嘆したジャン・コクトーは、それまで誰にも映画化を認めていなかった自作『恐るべき子供たち』の監督をメルヴィルに依頼することになります。
また、あのジャン・ルノワールもこの映画を観て、友人だったジャック・ベッケルに対し、「『海の沈黙』はこの十五年来見た映画のなかでいちばん申し分ない」と語ったとのことです。
(『サムライ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』ルイ・ノゲイラ著、井上真希訳 晶文社刊 より)
作家アンドレ・ジイドもこの映画を観たらしいのですが、観終わった後のセリフが振るっています・・・「あの若い娘は馬鹿だ。
平手打ちものだと思う!」(『サムライ』より)それだけ、かの大作家もこの映画に魅入られたということでしょうか…。
実際、現在この作品を観ても、台詞の少なさ、光と影の対比を利用した撮影方法、全体を貫く緊張感に満ちた演出法、音楽と演技の融合性など、処女作にして、すでに独自の作家スタイルを確立しているのに驚かされます。
また、ある種の戦争映画であるにもかかわらず、これほど動きのない映画も少ないのではないでしょうか。
ちなみに、映画の舞台となった家は、ヴェルコールが旅行中に空き家になっていた家で、そこをあえて使うところに、メルヴィルの強いこだわりを感じます。

恐るべき子供たち (1950) Les Enfants terribles The Terrible Children

コクトーはこの小説の映画化を誰にも許可しなかったが、新人メルヴィルの自主製作の長篇「海の沈黙」(未公開)を観て、彼の願いを聞き入れた。
かくして感覚的で崇高な青春像が刻まれ、その後に続く“新しい波”の第一波となったのだ。
開幕は美しい雪の晩。
少年ポールは雪合戦の中、憧れるダルジュロスの放った石を詰めた雪玉に倒れ、友人ジェラールによって自宅に運ばれる。
姉エリザベートは姉弟の聖域の部屋に簡単につまらぬ他人を入れたことが悔しかった。

影の軍隊 (1969) L’ Armée des ombres Army of Shadows

1942年ドイツ占領下のフランス。密告からゲシュタポに捕まったジェルビエは、辛くも脱走、レジスタンスと合流して裏切り者の抹殺任務に当たる。
やがてジェルビエは、ド・ゴールに会うためロンドンへ向かうが……。
戦時下でのレジスタンス闘争を描いた、J=P・メルヴィルの傑作戦争ドラマ。

仁義 – Le Cercle rouge (1970) Le Cercle rouge The Red Circle

護送中の寝台列車から脱走した男と、5年の服役を終えて出所した男。
追い詰められたボージェルは、偶然にも施錠されていないコーレイの車のトランクに身を潜める。
それとなく検問をかわすコーレイ。
仲間に裏切られ手負いのコーレイと、借りをつくった手負いのボージェルの2人は、コーレイの宝石強盗計画の実行に向けて、元警官でアルコール中毒にさいなまれる射撃の名手、第三の男と最後の賭けに出る。
そして、”Loser(負け犬たち)”とそれを取り巻く者たちには、必然的な離別が待っていた。

賭博師ボブ (1955) Bob le flambeur Bob the Gambler

夜になるとモンマルトル界隈の賭博場に出入りするボブには、息子のように可愛がっているポロという 若者がおり、彼は恋人のアンヌと、ボブの部屋で会ったりしていた。
ある時ボブは、ドーヴィルのカジノの金庫強盗を計画するが、ボブ の元仲間で親しい間柄の警視がそれをかぎつけており、決行の当夜、ルーレットの勝負がツキにツキ、ボブが所定の位置に姿を現わす前 に、仲間たちと警官隊とが撃ちあいになってしまう。

ジャン=ピエール・メルヴィル Jean-Pierre Melville

「人生は3つの要素、つまり、愛と友情と裏切りで成り立っている」というメルヴィルの人生観の基盤にあるのは、レジスタンス時代の体験である。
戦争中、ユダヤ人だった彼は自由フランス軍に参加し、レジスタンスの闘士として活動していた。
友情と裏切りと死が入り乱れる世界で培われ、磨かれた観察眼を以て、メルヴィルは映画を撮り続けた。
メイン・テーマは、男の宿命。
ほとんどの場合、映画の中心にいるのは男だ。
彼らの関係性について、「ホモ・セクシュアル」ならぬ「ホモ・ソーシャル」という言葉を用いて論じられるケースもある。
フランスで大ヒットした『仁義』(1970年)でのアラン・ドロン、イヴ・モンタン、ジャン・マリア・ヴォロンテの絆などは「ホモ・ソーシャル」の典型といっても差し支えないだろう。
メルヴィルはそのまま映像にしても映画的に成立しなさそうな薄い台本に、血と肉を与えて具現化する術を心得ていた。
作業にかかる際、彼は口癖のようにこういっていた。
「On va dilater.」ーー(台本の中身を)拡張しよう、という意味である。
その作風は独自の美意識に貫かれているものの、マンネリズムに陥ることはない。
表現方法に対して実に意欲的である。『海の沈黙』の台所で朝食を食べるシーンの合成、『恐るべき子供たち』での移動ステージやエレベーターの活用、『いぬ』での9分38秒の長回し……などからも分かるように、彼の映画作りの根本には、常に新たな試みをとりいれようとする自由さ、大胆さがある。