民芸 Folk Handicraft
芹沢銈介 Keisuke Serizawa
芹沢銈介が作品の制作に用いた手法は型染(かたぞめ)です。
型染は、古くから日本で行われてきた伝統的な染色技法で、渋紙を彫った型紙と、もち米を主原料とする防染糊を用いて布を染めます。
芹沢銈介の作品は、屏風、着物、帯、のれん、ガラス絵、肉筆画等多種にわたり、染色家としての活動領域をはるかに超える多様な作品を制作しましたが、特に沖縄の染色・紅型(びんがた)に触発された表現方法を生かして、斬新な作品を数多く制作した点が大きな特徴としてあげられます。
芹沢は、1939年に沖縄に渡り、同地の工芸研究を行う傍ら紅型の技を受けましたが、この時に触れた「琉球的な美」との出会いが、その後の制作活動の原点となりました。
河井寛次郎 Kanjiro Kawai
仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう
美はすべての人を愛している
美はすべての人から
愛されたがっている
美すべての人のものに
なりたがっている
飛ぶ鳥とめる
絵にしてとめる
あの音とめる
譜にしてとめる
思い(いのち)をとめる
形にしてとめる
此世は自分をさがしに来た処
――居たか、居たか
此世は自分を見に来た処
河井寛次郎
ブルーノ・タウト Bruno Taut
桂離宮を<再発見>したことで知られるドイツ建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)。
彼の建築や工芸ばかりではなく、その思想や理念が、今ふたたび注目を集めています。
ベルリンではタウトの設計したジードルンク(集合住宅)の修復が進められ、70年余ぶりに当時の鮮やかな色彩が忠実に復元されました。
統一後の大規模な再開発が一息ついたベルリンでは、この20年代の中産階級のためのジードルンクの豊饒な空間が再評価され、現在ユネスコの世界遺産として登録が予定されています。
日本でも、タウトが来日中に設計した『熱海・日向邸』(1935-36)の一般公開が始まり、ワインレッドのシルクの壁に包まれたエレガントなインテリアが人気を集めています。
日本を愛し、各地を見聞し著された『ニッポン』や『日本文化私観』などの著作は、日本人のための日本文化の手引きとして、今も広く読み続けられています。
20世紀初頭、タウトは、日常生活、社会生活、そして純粋な精神生活という3要素を融合させたとき初めて完璧な世界となるというユートピア思想をかかげていました。
1933年、日本を訪れ、そこでクリエイターや職人たちと出会い、日本の伝統や美意識を体験します。
それらはタウトの思想をどのように発展させていったのでしょうか。
バーナード・リーチ Bernard Leach
20世紀を代表する陶芸家のひとり、イギリスのバーナード・リーチ。
日本を愛し、日本に愛された男として知られている。
1887年、香港で生まれたリーチは、生後間もなく母を亡くし、4歳まで、祖父母のいる日本で育つ。
10歳でイギリスに戻り、ロンドン美術学校時代にはラフカディオ・ハーンに傾倒、日本への思いをつのらせ、22歳で再来日を果たす。
当時、時代の最先端を行く、柳宗悦、富本憲吉などとの出会いを通じて楽焼を体験し、感動を受けたリーチは、陶芸の道を歩むことを決意する。
その後、十数回の来日で、日本中を旅して周ったリーチは、各地の窯で名もない陶工たちと寝食を共にしながら、作陶を続けた。
日本伝統の技法だけでなく、人々の生活や、四季折々の自然を吸収しながら、イギリス人ならではの感性で独自の世界を確立した。
柳宗悦 Muneyoshi Yanagi
韓国で小学校教師をしていた浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ねます。
その美しさに魅了された柳は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになりました。
そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判します。下手物(げてもの)とは、ごく当たり前の安物の品を指していう言葉として、朝市に立つ商人たちが使っていたものです。
この下手物という言葉に替え、「民藝」という言葉を柳をはじめ濱田や河井たちが使い始めたのは、1925年の暮れです。
「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工藝」の「藝」を指します。
彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのです。