ニコラ・フィリベール Nicolas Philibert
- パリ・ルーヴル美術館の秘密 La ville Louvre (1990)
- 音のない世界で(英語版) Le pays des sourds (1992)
- 動物、動物たち Un animal, des animaux (1996)
- すべての些細な事柄 La moindre des choses (1997)
- 僕たちの舞台 Qui sait? (1999)
- ぼくの好きな先生(英語版) Être et avoir (2002)
- かつて、ノルマンディーで Retour en Normandie (2007)
- Nénette ネネット(2010)
- La Maison de la radio (2013)
ニコラ・フィリベールによるドキュメンタリー映画について
私はドキュメンタリー映画も好きでよく観るのだが、ドキュメンタリー映画というのは劇映画に比べると単調になりやすい傾向がある。
大概のドキュメンタリー映画はそれを回避するために作品のテーマを明確にして映像に変化をつけたり、音響を利用して観客の興味を煽るような作りになっているのだが、あまりにも内容が一面的すぎて胡散臭い印象しか与えないような作品もなかにはある。
映画を出発点としてなにかを考えたり、意識的に変化ある行動を起こしたりすることはもちろん良いことだとは思うのだが、その一方で、映画の内容がほんとうの真実であると丸呑みにしない厳しい視点と適度な距離感を持つこともドキュメンタリー映画を鑑賞するときには大切だとも感じている。
ニコラ・フィリベールはフランスを代表するドキュメンタリー映画の名匠というか、もはや現代ドキュメンタリー作家の最高峰ともいうべき存在で、彼の作品は単調に、退屈になることをおそれない強靭な視点を持っている。
おそらく劇映画(特にハリウッドの)に見慣れた人間には彼の映画はひじょうに地味であり散漫で、冒頭の30分などはまさに退屈さの極みであるように感じられるかもしれないが、この退屈さこそまさに彼の作品がほかのドキュメンタリー映画とは一線を画す部分なのだ。
フィリベールの作品は日常のどんな風景でも映画になるということを強く語るのである。
フィリベールはたとえ子どもに関する映画を撮っていても、トラクターががたがたと動いている農耕期の農村部の風景とか、天気だとか、木々の揺れだとか、なんてことはない道端の映像だとか、そういったありふれた風景をさりげなく挟み込んでくる。
もちろんフィリベールが詩的な映像作家を装うために導入したようにも思えるそれらの映像がまるで作品のテーマとの関連性がないというわけでもなくて、時間の経過をあらわす役割を担っていたり、画面に変化をもたせるアクセントになっていたりするのだけれど、それらは演出効果を狙った大げさな感じのするものではなく、観客を映画という非日常的なものから日常に引き込むための一種の装置といった印象を受ける。
装置と言えば聞こえがいいが、結局は意図的に仕組まれた演出だろうと言われるとそれまでなのだが、観客の興味を集めるための演出というにはフィリベールの映像はあまりにも静かで淡々としすぎていて平凡な印象なのだ。
私たちが一歩外に出れば見つかるような、もしくは誰もの記憶に焼きついているような、ごくありふれた時間と風景を切り取っているのである。
フィリベールの映画は日常の延長線上にある映画というものを考えさせる。
映画とはなにも特別な芸術作品なのではなく、もちろんそのような価値を持つ映画もなかにはあるが、私たちの生きる日常こそが映画になり得るのである。
そのことをフィリベールはどの作品のなかでも一番に伝えようとしているのだ。彼にとって日常こそが映画なのである。