中西俊夫×桑原茂一 80年代、ピテカントロプスを語る
日本で初のクラブと言われ、海外の著名人たちも多数、訪れたのが’80年代、原宿にあった「ピテカントロプス・エレクトス」。
その立役者、桑原茂一と、「メロン」の中心人物・中西俊夫が、これまで語られなかったいきさつを語る。
宝島AGES
―お二人の出会いは桑原さんが「プラスチックス」に声をかけたとか?
桑原 ハジメが同じマンションだったの。ハジメのお父さんとお母さんのマンションだったのかな。彼がそこによく遊びに来ていたんで、それで知り合っていたの。
中西 え、そうなの?それ知らなかった。
桑原 最初は全然、相手にしてにしてもらえなかった。
―魅力は何でしたか?
桑原 かっこよかった。見た目から入ったのね。
中西 当時はパンクがオールドスクールになり始めた時代だった。転換期だったんだよ。
―その後、中西さんはメロンを結成されますが、ピテカントロプスはメロンのために造った場所だと?
桑原 それしか理由はないですね。地方から来てもらうアトラクションのような場所かな。海外にはペパーミントラウンジとかマッドクラブとかあってね。これは体験しないとわかんないよね、と。
―そこでピテカントロプスを作ると。
桑原 たまたま徳永さんの(バッソー)というファッションブランドがあって。物件も向こうが見つけてきたんだ。
中西 徳さんはノストラダムスを信じ切っていたからね。そうせ1999年に日本が終わっちゃうなら、やりたいことやっちまおう、という発想だった。
桑原 そうなの?知らなかったよ、そんな話。
―そこで社長に任命された?
桑原 そう。でも社長業もやりたくないし、水商売はガキの頃から知っていたので、店にいて客の相手をする、というのはやりたくない、っていうのがあって。じゃあ、店のコンセプトづくりとか、入れ物をどうするのかをいろいろ考えてくれ、と。ただ自分の中には、ニューヨークでレコーディングをした「メロン」のファーストアルバムのことがすごく大事だった。それをどうやって日本で認知してもらおうか、っていうことを考えると、場があるっていうのはすごく理想的だった。
それまでもメロンはライブをやっていたんだけれど、当時は「屋根裏」みたいな、いわゆるライブハウスの環境しかなくて。ファッションショーでもそうだけど、どういう場でやるかっていうことが、ものすごく大事なんだけど(理想の場が)なかったんだよね。自分たちがやろうとしていたことはドロドロとしたものではなくて、もっと洗練されたものだったんであって、それをやるにはそれに似合う場所が必要だった。そういう意味で、じゃあ(ピテカントロプスを)やってみようかな、と思ったんだよ。
―オープニングのエピソードはありますか?
桑原 「11PM(イレブンピーエム)」の取材をコンちゃん(今野雄二さん)が入れてくれてね。「東京に新しい若者のスポットができました」みたいな(笑い)。それでスネークマンショーのメンバーが揃ってないとマズイっていうんで、克也さんとかみんなを招集したんだよ。みんな何で俺はここにいるんだって顔してた(笑)。
―創立者のコンセプトはどんなものだったんですか?
桑原 当時のNYやパリやロンドンには、みんな渡航すれば必ず行く場所っていう場所があって。そういう場所って知っている人間しか作れない、っていう。東京にそういう場所を作ろう、と。
中西 コンクリートの何もない空間。NYではそういう殺伐としたところでジェームスホワイトが演奏していた。「STUDIO54」はディスコっぽいキラキラの空間にデビット・ボウイや、アンディー・ウォーホルがいて、いろんな物が落ちてきたよ(笑)。その真逆。
桑原 日本のメディアには距離感があって解ってもらえなかった。何もないところにアートの作品が飾られて完成していくプロセス。それは伝わらなかったね。
―ピテカンの名前の由来はどこからでしょう?
桑原 その頃「コム・デ・ギャルソン」のショーの仕事で定期的にパリに行く用事があって、たまたまこういうタイプのものを美術館か何かで見て、そのイメージがずっとあって。トシにレコーディングの時「そういえば(直立原人)の学術名って何だったけ?」って聞いたんだ。それからピテカントロプスになったんだよ。
中西 で、地面に赤いペンキで(ロゴを)描いた。隣のおじさんに怒られたな(笑)。
桑原 秀逸だったのはピテカンのエントランスをプリミティブなイメージにしたいと思っていたら、骨を使って文字を作ろう、とトシが言って。さらに秀逸なのが、その骨は、ケンタッキーでチキンを買ってきて、ってトシに言われてね。
―本当ですか?
桑原 みんなでチキン食ったよ。その骨を後生、大事に持っていくやつがいて。それ、実は何か、分かってる?っていう(笑)
―ファンにはちょっとしたショックですね。
中西 実際、骨はビネガーで処理しないと腐ってくるの。だからなくなってよかったんだよ(笑)。ハウスバンドはメロン、東京ブラボーとショコラータ。後になってMUTEBEATがくわわった。
―ところでこれまで語られなかった閉店のいきさつというのは。
桑原 実はあの場所は文京地区で千駄ヶ谷小学校があって。
中西 最初からアウトだったんだよ(笑)
桑原 あとになって文教地区だとダメなんだよ、って言われてさあ。ここまでやって来たのに?って、いうね。
中西 (その後)「クラブD」になったら、まあまあやってたから何かを感じるよね。
桑原 日本はそういう国なんだよ。音がちゃんと出せてたら、そこそこ成功していたと思うよ。クレームが来たらすぐ警察が来て、音を止めないといけないわけ。音が出せないんだからDJもまともにできないんだよね。
中西 だから僕は仕方なく、モンクベリーズに行ってた。
桑原 ずるくない?(笑)
中西 ピテカンに行ったらKUDOちゃんが蚊の鳴くような音でつまんなそうにDJしててさ。でも、そういう何でもない日にバスキアが一人で来て和食を食べていたな。
桑原 憶えているよ。紳士だったな。
中西 ジョン・ライドンが来たり、ブライアン・フェリーとデビット・バーンが同じテーブルに座っていた日もあったよね。
桑原 深夜までちゃんとした日本食を出す場所はなかったんだよ。そこは僕がこだわった所だね。
―そんなピテカンデで演るメロンのライブはほかの場所でやるのと違っていたと思うんですが?
桑原 舞台美術もプロに入ってもらっていたからね。ドアマンは最初、(U・F・Oの)ラファエルで、次にカズ君がなって。
中西 アイドルをさんざん待たせた挙句に入れなかった、なんてこともあったな。
桑原 ピカテンって、実は2年やってないんだよ。それはまあ、水商売じゃなかったからね。江戸時代からこの国には縄張りがあって、そこに抵触すると弾き出される。みんな日本は自由の国だと勘違いしているかもしれないけど。
中西 何十年たっても変わらない。今も同じだよ。
―振り返られて80年代という時代はどんな時代でした?
桑原 思った以上にビジネスがうまくいく時代でどうやったらモノが売れるかをみんなが会得して、やればやるほど売れた時代だった。うまいことやって儲ける、儲かっていないとドンくさい、みたいな。儲かる・儲からないが社会の主流になっていった時代。それまでは良い・悪いが判断基準で、良いものは残そうという時代だった。
中西 僕らはビギナーズラックということかな。あの時代にいたから出来たこと、と思うのもあるな。
―日本のクラブシーンの扉を開け、2年弱で大きな布石を残された。
中西 そういうことになっているよね(笑)
桑原 夜中に遊ぶって特殊なことでそういう人が少ない時代だった。欧米だとオーディエンスの層も広いし、全然、日本と環境が違ったんだ。「清濁併せ呑む」という言葉があるけれど、そういう人じゃないとやれないんだよね。確かに僕らは最初の狼煙を上げたのかもしれないね。