山田かまち

1960-1977,群馬県高崎市生まて、17歳の彼が自宅の2階でエレキギターに感電死して亡くなっていました。
画家であり、詩人だった、かまちは、言葉と絵を残して短い人生を走り抜けた。
かまちの死後、母親がかまちの部屋のベッドの下から沢山の作品をみつけました。
“1日が24時間じゃたりないよ“
“生きることを生きろ“
など言葉を残しました。
同級生だった氷室京介とバンドを組んだこともありました。


僕は10代を北海道で過ごしました。
その頃はインターネットなどなく、東京はあまりに遠く、憧れと怖さが入り混じったインクのようにぼやけて見えた。
偏差値教育という、人間を偏差値という物差しで振り分け企業に送り込むというバブル経済のど真ん中。
ひずみが社会のあちこちで現れ、不良、非行少年、積み木崩し、暴走族、大学生が外車に乗り、世界中の不動産を買いまくり、史上最高高値で絵画を買いあさっていた。

1990年、僕は東京にいた。
木村拓哉、江口洋介がアメカジ、ロン毛、レッドウィング。
六本木のアマンド待ち合わせに、一夜の夢に永遠を見ていた。
世の中の価値が日々変わり続け、日本全体が世界の中心だと錯覚していた。
お金が世の中を支配し、立身出世に拝金主義、山一證券、北海道拓殖銀行の倒産、日本が激動にあった。
何のために生き、何のための学歴、何のための人生。
日本中のだれもが、疑問に思い始め模索し始めていた。
1990年はそんな時代。
代弁者は尾崎豊だった。
尾崎の歌詞は10代の若者の心に突き刺さり、模索していた人生の意味を彼に求めた。
山田かまちもそんな人。
今の時代からはどうして、そんなに熱いのか理解ができないかもしれない。
だけど、どんな時代であれ、人として生きている限り悩みや不安は希望とともにある。
山田かまちはそんな時代に生きた一人。
ぼくとは違う群馬という土地で、BOOWYの氷室さんや布袋さんと同じ時代、同じ場所。
言葉は時を超えて、降り注がれると思う。

もうこのノートがおわった
はじめのころとはずいぶん変ったな
そりゃなんたって、人間だもの
アルミニウムの溶けたのが宇宙にばらまかれた
すばらしい彫刻ができた。
「おろか者」という題名の
虹のように消えてゆくきょうも
午前0時で明日につながっている。
芸術は不幸者のどろ遊びであってはならない。
不幸者をよみがえらせる綱でなくてはならないのだ。
生まれたとき、
海が目の前にひろがっていたら。
生まれた時、
感動が生をつつんだら。
あなたはしあわせというしかない。
生まれた時、
愛するものにつつまれていたら。
あなたはしあわせというしかないんだ。