美しいって決めるのは誰?ナショナル ジオグラフィック

ソーシャルメディアの普及などを背景に、既存の美の定義にとらわれない考え方が広まりつつある。
どんな容姿も受け入れ、誰もが美しいと評価される時代がもうそこまで来ている。
ムスリムの女性でも着られる露出の少ないデザインのファッション·ショーが、トルコで開かれた。
楽屋でメークを施されるモデルのハリマ·アデンは、ソマリア難民としてケニアで生まれ、米国に移住した。
ミス米国のミネソタ州予選に初めて、ムスリムの女性用のスカーフ「ヒジャブ」と水着「ブルキニ」で出場した。

ブラジルのサンパウロにある美容室「コレチーボカベッサス」で髪をカットしてもらう若い女性。
女性たちが共同で経営するこの店は、服や雑貨も販売していて、女性たちに居場所と、既成概念にとらわれない自由な表現の場を与えている。

表紙を飾ったのモデルは、スーダン人の女性だった。

艶やかな漆黒の肌、短く刈り込んだアフロへア。
イタリアの高級ブランド「ジョルジオ·アルマーニ」のシンプルな白のブレザーは、背景の白に溶け込んであまり目立たなかったが、ブレザーをまとったモデルのアレック·ウェックの存在感は強烈だった。
その表紙とは、ファッション雑誌『エル』米国版の1997年11月号。
写真はフランス人の手によるもので、この業界ではよくあることだが、さまざまな国のクリエーターが関わっていた。
ウェックの体は少し斜めを向いてポーズをとっているが、目はまっすぐカメラを見つめている。満面の笑みを浮かべた顔は、彫りの深いシャープな白人モデルの顔ではなく、あどけなさが残る、ふっくらとした典型的なアフリカ系の顔だ。
その容姿は、従来のファアッション誌の表紙モデルとは、あらゆる点で違っていた。
ウェックがエル誌に登場してから20年余りがたった。
美の定義は広がり続け、非白人や肥満、白斑がある女性、頭髪がない女性、白髪やしわのある高齢女性もそこに含まれるようになった。
時代は多様な美を包み込む新しい文化へと移行しつつある。
そこではどんな容姿も受け入れられ、どんな人も美しいと評価される。
ありとあらゆるタイプのモデルがファッション誌の表紙を飾り、パリ·コレクションのショーに出演し、さっそうと歩くようになった。

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米国ニューヨーク市のタイムズスクエアを見下ろす広告板。自分らしい美しさを表現した写真をイスタグラムに投稿するキャンペーンや、肌の色や出身国など多様なモデルを起用することで、幅広い顧客に向けてシェア拡大を狙った広告もある。

多様な美が受け入れられるようになったのは、一般の人々がそれを求め、抗議の声を上げたからだ。
彼らはソーシャルメディアでファッション業界の偏狭さを鋭く批判し、門戸を広げるよう圧力をかけた。
ウェックは新しい美の体現者だが、美しさは、はるか昔から女性を語る上で欠次かせないものだった。
長年、女性の社会的な価値を測る尺度とされ、利用すべきツール、巧みに活用すべき強みとされてきた。
女性の将来が条件の良い結婚にかかっていた時代には、「せっかくの美貌を無駄にするな」と言われた女性たちもいる。
言うまでもなく、美の基準は文化によって異なる。
ある地域では美しいとされる特徴が、別の地域では評価されないばかりか、疎まれることさえある。
だが同時に、美は普遍的なものでもある。
世界中に通じる、美とはこうあるべきという基準を体現する人たちがいる。
昔から欧米における美女の条件は、ほっそりとした体形ながら、豊かな胸と細いウエストをもち、顎のラインがきれいで、頬骨は高くてシャープ、鼻はすっきり、瞳はつぶらで明るく、理想的には青か緑色、髪は流れるように豊かで、できればブロンドといったものだった。
目鼻立ちは左右対称であることが望ましく、若さが求められたのは言うまでもない。
女性誌の草創期、つまり美が定義され、商業的に利用され始めた時代には、これが基準だった。
女優のカトリーヌ·ドヌーブや、女優からモナコ公妃となったグレース·ケリーは理想に最も近い。
この完壁な美から離れるにつれて変わり種扱いされ、あまりにもかけ離れると魅力に欠けるとされた。
肌が黒いか浅黒い女性、太った女性、高齢の女性などは、一般的な基準では、相手にされないような存在だった。
だが、1990年代前半、モデルのケイトモスの登場とともに、美の定義が広がり始めた。
英国出身の10代の少女で、身長は170センチとモデルとしては小柄。
特に優美ではなく、多くのモデルがまとっている、近づきがたいオーラもない。
そんなモスが脚光を浴びたことで、それまでのモデルたちが体現していた美の基準は大きく変わった。
だが、モスは従来の基準に揺さぶりをかけたとはいえ、欧米系の白人が考えるファッション業界の美の定義では、十分に許容範囲に入っていた。
12歳の少年のような、やせ細った体形のツィッギーをはじめとする1960年代のモデルたちもそうだ。
肌の色の壁を壊した初期の黒人モデルたちでさえ、比較的無難な存在だった。
ファッション雑誌『ヴォーグ』米国版の表紙を飾った初の黒人モデルであるビバリー·ジョンソン、ソマリア生まれのイマン、そしてナオミキャンベルやタイラバンクス。
彼女たちは皆、シャープな顔立ちで、流れるような髪をもっている。
イマンは長く美しい首が印象的で、キャンベルは当時も今もセクシーな脚線美とヒップラインを誇る。
バンクスはビキニ姿で米国のスポーツ誌『スポーツイラストレーテッド』の表紙を飾り、一躍注目を浴びた。

覆された美の概念

だが、ウェックが与えた衝撃は、その比ではなかった。
彼女の美しさはまったく異質なものだったのだ。
強くカールした髪は、頭の輪郭がはっきりとわかるほど短く刈り込まれている。
毛穴がないかのようななめらかな肌は、濃いチョコレート色。
鼻は横に広がり、唇は分厚く、脚はあり得ないほど長くて、驚くほど細かった。
欧米文化のレンズを通して美を解釈する訓練を受けた人たちの目には、その容姿は受け入れがたいものだった。
黒人でさえ例外ではなく、ウェックを美しいと思わない人が大勢いた。
鏡を見れば、そこには彼女と同じ、漆黒に近い肌と縮れ毛をもつ自分が映っているのに、ウェックがエル誌の表紙に起用されるなんて納得がいかない一そんな女性たちが大勢いた。
突然現れ、一気に既成概念を変えたウェック。
彼女が美の象徴となったのは、とても喜ばしいことだが、それは同時にめまいがするほど急激な変化でもあった。
一世代前よりも状況は良くなっているとはいえ、まだファッション業界は “理想郷”には達していない。
オートクチュールのコレクションなど、最も権威ある美の世界では今も、太めの女性や障害をもつ女性、高齢女性のモデルは排除されることが多い。
だが正直なところ、理想郷がどんなものか、私にはよくわからない。
誰もが美人コンテストの勝者の証しであるティアラやたすきを誇示するような世界なのか。
それとも美の定義が広がり過ぎて、意味を失った世界だろうか。
あるいは、表面的なものでとらえる従来の美の定義を超えた、新たな概念が生まれた世界かもしれない。
周知の通り、美しさには経済的な価値がある。
容姿が魅力的な女性の周りには人が集まってくる。
すなわち、彼女たちはより優れた人間であり、そのために高収入を得ていると、私たちは教え込まれてきた。
今の風潮では、魅力的であることは主流の文化の一員であることを意味する。
つまり、広告やマーケティングのターゲットと見なされていること、他者から望まれ、尊敬され、受け入れられる存在だということだ。
だとすれば、「彼女は魅力的か?」と聞くことは、「彼女は相手にする価値がある人間か?」と聞くことになる。
もしそうであれば、よほど無神経でない限り、誰かのことを魅力に欠けるなどとは言えないだろう。
その人には価値がないと切り捨てるに等しいからだ。
そうするぐらいなら嘘をつく方がいい。
「もちろん、あなたはきれいだ」と。
ある人の美しさを認めないのは、その人の人間性を認めないことになる。
外見の美がそれほど重視される風潮は少し怖い気もする。

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誰もが美しいと言われる時代

かつては女性の美しさは、いくつかに分類されていた。
素朴な女性、愛矯のある女性、魅力的な女性、きれいな女性、そして美しい女性だ。
素朴な女性は自分の容姿がさえないことを心得ていた。
愛矯のある女性は、何か際立ったチャームポイントをもっている。
魅力的と言われる女性は大勢いて、きれいな女性はそれより一段階上だった。
そして、究極のレベルが「美しい女性」だ。
美しいという言葉は、特殊なケース、幸運な遺伝子に生まれた人だけに当てはまる表現だった。
完壁な美しさは周囲の人々を驚かせ、本人にとって負担になることすらあった。
だが今では、美容整形の技術が進歩しているし、個々人に合わせた、より効果的なダイエットが普及している。
また、フィットネス産業が興隆を極め、補正下着が市民権を得るなど、さまざまな要因が重なって、誰でも容姿を改善し、例外的な美人に少しだけ近づけるようになった。
インターネットのブログで情報を発信するブロガー、セラピスト、それに善意の友人たちが声を合わせて、「大丈夫、あなたは魅力的だから」と励ます。
だが、厳しい真実を告げて、もっと自分を磨くよう奮起させるようなことはしない。
今のままで完壁だと、あなたに自信をもたせることが、そうした人たちの役割なのだ。
しかも、あらゆる意味でグローバル化が進んだ今、インターネット上に写真を投稿すれば、どこかの誰かが必ずあなたの容姿を褒めてくれる。
そう、今や誰もが美しい時代なのだ。

ファッション界の激変

ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ。
世界の伝統的なフアッションの都では、この10年間で、それに先立つ100年間よりもはるかに美の基準が変わった。
ファッションに革命は付き物だと思われているが、実はこれまで変化は少しずつしか進まず、革命と言ってもせいぜいスカート丈が数センチ変わる程度のものだった。
長年、直線的な体形がもてはやされ、その後少し曲線的になった。
ショーに出るモデルのファッション誌の表紙モデルは、女性たちが 「こうなりたい」と憧れる存在で、そのイメージはしばしば世界共通の美の基準となる。
女性たちに理想の美を売り込むことで成り立っているファッション業界にとって、そうした雑誌の広告効果は絶大だ。
平均的な服のサイズは、デザイナーの理想を反映して、6(日本サイズの9号)から0(5号)にまで縮んだ。
いわゆるオートクチュールのモデル体形、細身でヒップが平らで、胸もほとんどない体形がもてはやされた。
だがその後、やせた白人モデルばかりのショーの全盛時代に先んじたプラダのデザイナー、ミウッチャ·プラダが、砂時計形の体形のモデルを突然起用し始めた。そして、特大サイズのモデルであるアシュリーグラハムが、2016年のスポーツ·イラストレーテッド誌の水着特集号の表紙を飾った(上)。
さらに19年には、やはり同誌の水着特集号で初めて「ヒジャブ」と呼ばれるムスリムの女性がかぶるスカーフを着用したハリマ·アデンが、表紙に起用された。
その慎み深い美しさやふくよかな女性の美しさが話題にのぼると、あっと言う間に人々の意識が変わったのだ。
美の解釈の変化は、ここ10年ほどで、かつて「隙間市場」と見なされていた領域でも起こっている。
ノンバイナリー(自分は女性でも男性でもないと感じている人)やトランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)は美の主流を語る上で欠かせない存在になった。
性的少数派の権利が法廷で認められるにつれ、彼らに特有の美意識も市民権を得て、ショーや広告のモデルに起用されている。
こうした変化の背景には、テクノロジーと経済、そして審美眼に磨きをかけた新しい世代の消費者の登場といった要因がある。
ここで言うテクノロジーとは、ソーシャルメディア全般、特にインスタグラムのことで、経済要因の基本は、市場シェアをめぐる激しい競争だ。
ドレスから口紅まで、潜在的な顧客層が拡大するなか、個々の企業はより広い層に訴求する広告を打ち出さねばならない。
今では信じがたいことだが、1990年代にはショーの会場で撮った写真をインターネット上に投稿すれば大問題になった。
作品が公開され、そのデザインをまねた商品が市場に出回る事態は、デザイナーにとって悪夢に等しい。
一方、コピー商品は今でもデザイナーの頭痛の種だが、インターネットがもたらした真の革命は、消費者がコレクションの発表とほぼ同時に、最新のトレンドをつかめるようになったことだ。
かつては、コレクションを見るのは業界関係者だけだった。
一般向けのショーではなく、業界関係者はそこに誇張や派手な装飾があるのを心得ていた。
彼らは異文化の勝手な借用や人種的なステレオタイプに気づかないか、気づかないふりをしていた。
しかし富裕層の顧客が多様化し、小売りの販売網が広がり、ソーシャルメディアが影響力をもつようになって、ファッション業界は商品のデザインや広告でこれまで以上に説明責任を間われるようになった。
アパレルや化粧品のブランドは、インドや中国などで高級品を買う人が増えたため、今では新しい顧客層に配慮して、アジア系のモデルを積極的に起用している。

ファンタジーから現実世界へ

ソーシャルメディアを通じて、社会の少数派が声を上げるようになり、彼らの代表を起用してほしいという声を、簡単には無視できなくなってきた。
また、情報サイトやブログが増え、肌の色や性別などにかかわらず、あらゆるジャンルの潜在的な顧客たちが美について雄弁に語るようになった。
加えてソーシャルメディアには、人々の購買行動に影響を与える、まったく新しいタイプのリーダーが登場した。
「インフルエンサー」だ。
ファッションの魅力にとりつかれた若いインフルエンサーは企業のひも付きではなく、変化を気長に待ってはくれない。
なだめても、すかしても無駄だ。
業界関係者がどうあがこうと、変化はすでに始まっているのだ。
現代の欧米の美の基準では、これまでずっと細身であることが必須条件だった。
だが肥満率が高まるにつれ、現実とファンタジーの垂離が広がっていった。
どう頑張ってもファンタジーに手が届きそうもないことに、人々はしびれを切らし始めたのだ。
太ったブロガーたちは、「やせなさい」と忠告したり、「着やせして見える」着こなしを教えたりするアドバイザーに、余計なお世話だと反旗を翻した。
「私たちは自分の体形に完壁に満足しているわ。ただ、もっとすてきな服が、私たちのサイズの服が欲しいのよ」と。
彼女たちは美しいと言われたがっていたのではない。
太っていてもファッションを楽しんでいいし、楽しみたいと主張しただけなのだ。
こうして美しさと自己肯定感は、切っても切れないものになった。
伝統的な美の基準にこだわり続ければ、ファッション業界は大きな商機を逃すことになる。
クリスチャン·シリアーノら気鋭のデザイナーたちは、太めの顧客向けの服を作り、商業的に成功して、そのビジネス手腕を高く評価されている。
今では超高級ブランドですら、太めのモデルを起用することは珍しくない。
とはいえ、美の基準が変わったのは、より多くのドレスを売るためだけではない。
ビジネス上の理由だけなら、おしゃれを楽しみたい、楽しむ余裕もある太めの女性たちは昔からいたのだから、デザイナーたちはとっくに大きなサイズを扱っていたはずだ。
ただ単に、大きいことは美しいと見なされていなかったのだ。

人々の意識は変わってきたが、ファッション業界は今も太めの女性に抵抗感がある。
彼女たちを憧れの存在に祭り上げることに、美を判定する立場にある人々はためらっている。
彼らにとって美の象徴には、細長いラインや、シャープな顔立ちが欠かせないのだ。
とはいえ、彼らも社会の変化と無縁ではなく、新しいメディア環境に身を置いている。
一般の人々は、デザイナーが多様なモデルを起用しているかチェックしていて、そうでなければ、ソーシャルメディアで批判の声を上げる。
そして、やせ細り、摂食障害に陥ったモデルたちの話が広く伝わるようになると、極端にやせたモデルを使うブランドを名指しで批判し、そんな慣行をやめるよう圧力をかけ始めた。
たとえば、ウェブサイト「ファッション·スポット」は、多様性の監視役として非白人、トランスジェンダー、高齢、あるいはふくよかなモデルが全体の何割を占めているかを、随時調査し、報告している。
女性のデザイナーが年をとれば、中高年女性のための服を手がけそうなものだ。
ところが彼女たちは、自分たちが生み出した若さを礼賛する風潮にどっぷり染まっていて、老けて見られることを恐れ、ボトックス注射を打ち、ダイエットに励む。
業界用語では今でもあか抜けない服を「オールド·レディー(老婦人)」と呼ぶ。
「メイトロンリー(年配婦人風の)」と言えば、おしゃれでないか、流行遅れのドレスのことだ。
けれども、今や一般の女性たちは業界のこうした常識を当然とは考えず、高々と反旗を掲げる。
高級ブランドが中国や中南米、アフリカに販路を拡大するにつれ、デザイナーたちは文化的な地雷原を避けて、新たな顧客にアピールできる最善の方法を模索するようになった。
踏むと怖い地雷原とは、アフリカの一部地域の美白ブーム、幼さを善しとする日本の「かわいい」文化、二重まふぶたに憧れ、整形手術を受ける東アジアの女性たち、そしてほぼあらゆる地域にはびこる、肌の色が黒い人たちに対する差別だ。
理想化された美には新しい定義が必要だが、一体誰がそれを決めるのだろう。
新たな発信者たち欧米では、伝統的なメディアだけでなく、ソーシャルメディアや、多文化共生が当たり前の世界で大人になった、新世代のライターや編集者が影響力をもつようになった。
1981~96年生まれの「ミレニアル世代」は、主流の文化に同調せず、そこから堂々とはみ出してみせる。
どうやら美の新しい定義を決めるのは、人ひとりが自分のメディアの表紙モデルとなる “自撮り世代”のようだ。
新しい美しさは髪形や体形、年齢や肌の色では定義されない。
美意識の問題というより、自意識の問題、自己肯定感や個性の問題になりつつある。
たるみのない腕やしわのない額といったものも自慢の対象になるが、突き出した
腹や輝く白髪など、これまで隠すべき「欠点」とされていたものが誇示されることもある。
ニューヨーク発のブランドで、照明にも舞台装置にも予算をかけない、殺風景な会場でコレクションを発表している「ヴァケラ」もその一例だ。
くしゃくしゃの髪をしたモデルがショーに登場し、観客にけんかを売るかのようにドタドタ歩いたり、つまずいて転びそうになったり、二日酔いのようにふらふら歩いたりする。
男性的なモデルが肩からシャワーカーテンのように垂れ下がるドレスを着ている一方で、女性らしい容姿のモデルが、背中を丸めて猛スピ ードで歩き去ったりする。
ヴァケラの服を着ると、脚が太く短く、体はずん胴に見える。
モデルは 素人だ。
街でちょっと変わった人を見つけてモデルとしてショーに出し、「これが今の美しさだ」と宣言する。
実は、こうした手法を採っているブランドはヴァケラだけではない。
アパレルブランドの「ユニバーサル·スタンダード」が、米国サイズで24という超特大サイズを着る女性を起用し、少し前に広告キャンペーンを打った。
その広告の写真ではモデルは体にぴったりフィットする下着を着け、白のソックスをはいてポーズをとっている。
味も素っ気もない照明の下で、少し縮れた髪や、皮下脂肪の塊でほこほこした太ももがはっきり見える。
オーラもなく、女性たちの憧れをかき立てる要素もない。
現実にいる女性を誇張させたような興ざめな姿は、人気下着ブランド「ヴィクトリアズシークレット」の華やかで、きらびやかなモデルたちとは正反対だ。
既存の美の概念は、音を立てて崩れ去ろうとしている。
今ではこれが普通だと言われても、ユニバーサル·スタンダードの広告の写真が衝撃的なことに変わりはない。
醜悪だとすら言う人もいるだろう。
多様な在り方を尊重し、平凡な容姿のモデルが求められる一方で、この女性が美しいとされることに当惑する人も大勢いる。
彼らは体重90キロのモデルを見て、彼女が自信たっぷりなことを認めた上で、「こんなに太っていたら、体に悪いのではないか」とつぶやく。
そうすることで、肥満女性も美しいという考えに、やんわりと異を唱えているのだ。
しかし実は、ユニバーサル·スタンダードのこのモデルが、ヴィクトリアズ·シークレットのモデルたちと同じように下着姿で脚光を浴びること自体が、こうした社会に対する抗議のメッセージにほかならない。
そこに込められているのは、太っていてもモデルになりたいという主張ではなく、否定的な評価なしに、自分の体を受け入れてほしいという思いだ。
米国社会には、彼女のような女性が太ったままでいることを容認しないような風潮があるからだ。
太った女性だけではない。
高齢女性も自分たちの存在を認めてほしいと主張しているし、黒人女性も生まれもった髪のままで脚光を浴びたいと訴えている。
中立の立場などあり得ない。
今では体、顔、髪、すべてが政治的な意味合いをもつ。
誰かを美しいと認めることはその人を尊重し、価値を認めること、その人が今のありのままの姿で存在する権利を認めることだ。
黒人女性なら、自然な髪が美しいと認められれば、縮れ毛のままでも、職業上ふさわしくない髪形をしていると見られずに済む。
太った女性なら、腹の賛肉でさえ美しいと認められれば、人前でデザートを食べても、知らない人にとがめられたりせずに済むということだ。
高齢女性のしわが美しいと見なされることは、彼女が見られる対象であること、言い換えれば、性的魅力もユーモアも知性もある一人の人間として尊重されることを意味する。
「ありのままの自分に誇りをもとう」一これは、フランスのブランド「バルマン」がパリで発表した2020年春夏コレクションのTシャツにプリントされたメッセージだ。
バルマンのクリエーティブディレクターであるオリビエ·ルスタンは、多様な美を認めるデザインで知られる。
ルスタンと、リアリティー番組で有名になった実業家キム·カーダシアンは、「スリム·シック(厚みのある細身)」という概念を広めるのに一役買ってきた。
これは運動選手を思わす21世紀版の砂時計形ボディーで、ヒップや胸、太ももは豊満だが、ウエストは細く引き締まった女性を指す。
スリム·シックという言葉が生まれたことで、女性たちが憧れる体形がまた一つ増えたが、変化はそれだけではない。
女性たちは自分の体形に名前をつけ、ハッシュタグ付きでソーシャルディアで発信し、たくさんの「いいね!」を集めるようになった。
そう、「ありのままの自分に誇りをもとう」の精神だ。

個々が存在する権利

休暇中に撮った女性グループの写真や母親と子どもの写真を見ると、そこには相手を大切に思う気持ち、喜びや愛、友情があふれている。
もしも彼女たちと知り合い、好感をもてば、私は彼女たちの美しさを手放しで認めるだろう。
身近な人ならどうか。
たとえば私は母の写真を見ると、世界一美しい女性だと思う。
頻骨が高いから?それともスリムだから?
いや、それは私が母の人柄をよく知っているからだ。
私たちの文化では、内面の美しさが大切だと言われるが、それは建前にすぎず、現実の社会生活では見た目の魅力がものをいう。
そうしたなかで新しい美の基準が私たちに求めるのは、会ったことのない人を美しいと認めること。
他者の最も良い面を想定し、心を開いて構えることなくつながることだ。
現代の美は、「批判的な先入観なしに美しさについて語ってもらいたい」と主張しているわけではない。
その場にいる人は誰でも、そこに存在する権利がある。
それを認めてほしいと訴えているだけだ。