田村哲也 TETSUYA TAMURA

田村哲也 tetsuya tamura

―ところで田村さんと言えば「mod’s hair」の代名詞的存在ですが、いきなり海外からのスタートだったんですか?
田村 いいえ、そうではないんですよ。日本で美容学校出てからちゃんとインターンに入りましたよ。そのお店が、僕が唯一勤めた美容室だったんだけど。
ア シスタント時代の大抜擢
そこから今のキャリアは始まった
―どんなアシスタントだったのでしょうか?
田村 実は、ちょうど僕が入社した年、そのお店は、フランスのサロンと提携した店舗をつくることになったんです。多分、’69年頃かな。たまたま僕は当時から英語が好きだったし、フランス語もカタコトカタコト話せたんですね。それを知ったオーナーが「そのお店はおまえに適任じゃないか」ってことで、そこに配属されることになったんです。
―それ、大抜擢ですね。
田村 ジャン・マルク・マニアティスと、クロード・デュボァという2人のフランス人スタイリストがいて、僕の仕事は、彼らのアシスタント。確かに大抜擢と言えば、そうですよね。サロンは、渋谷の西武百貨店の中にあって、毎日のように各フロアでファッションショーをやっていたので、そのヘアメイクを担当したり、雑誌の撮影とかもやりました。
―ということは、いきなりヘアメイクからスタートなわけですか。サロンには立っていなかったのですか?
田村 もちろん、やりましたよ。ただ、有名なフランス人スタイリストのアシスタントだから、お客様はセレブばかり。ロイヤルルームという特別なスペースで、スタイリストのフォローをするんだけど、彼らはフランス人だったこともあって、いきなり僕にカットやってみてとか、アイロンまいてとか、きっちりトレーニングしていないのに、突然、注文されるんです。だから僕は、そのたびにもう必死で、見よう見まねでやるしかなかった。でも、同期のみんなはシャンプーからちゃんと段階を追って技術を習得できるわけですよ。そんなわけで、しっかりと技術を身につけられた同期が、とても羨ましかったんです。
―なるほど。でも、ちょっと羨ましい悩みにも聞こえますが。
田村 そんなことないですよ。僕、A型なので、意外に物事しっかりとやりたいほうなんです。だから美容室に入ったときも、まずは技術をしっかりと身につけたいなっていうのが、本音だったんです。で、そうこうしているうちに、2人のフランス人たちは帰国することになって…。気づいてみると、彼らのセレブなお客様や、撮影やファッションショーの仕事が全部、自分にのしかかってきたんです。
―それを、どうやって切り抜けたのですか?
田村 どうしたもこうしたも、サロンの中でそういう仕事の経験があるのは、ある意味、僕しかいなかったわけですから、やるしかなかったんですよ。だから撮影には先輩の技術者たちを引き連れて「このモデルさんは、こんなふうにつくってください」なんて、後輩のくせに偉そうにディレクションしたりとか(笑)。
クリエイションのトップに囲まれて表現活動の幅を広げる
―その後21歳でフリーで独立したわけですが、貴重な経験も多かったのでは。
田村 そうですね。ニューヨークで活躍していたカメラマンの坂田栄一郎さんが帰ってきて、一緒に仕事できたりね。坂田さんは、リチャード・アヴェドンという超有名カメラマンの専属メイクアップアーティストのマキシーン・バンクリーフと結婚していて、マキシーンがメイク、僕がヘアを担当し、やはりロンドンから帰ってきたばかりの与田弘志さんが撮影したのが、当時、創刊したての「an・an」での初仕事でした。フランスの「エル」で活躍していた吉田大朋さんとも仕事したり。カメラマン以外にも、コシノジュンコさんや安井かずみさんとか、その当時の最先端の人達の仕事ぶりを20歳とか、21歳で垣間見ちゃったみたいなところはありますね。
―どうしたら、そういう人とコラボできるのですか?
田村 ちょうど’69年から’70年、ファッション界の革命期に、この世界に飛び込んだのもラッキーだったと思いますよ。僕がパリに渡ったときもそうだったし。パリには’72年に行ったんですけど、ちょうどこれまでのオートクチュールに替わってプレタポルテが出始めた頃だった。だから「フレンチヴォーグ」では、これまではオートクチュールしか取り上げなかったのに、プレタも掲載し始めるような。美容で言うと、プレタの大革命で「カリタ」や「アレクサンドル・ドゥ・パリ」のような超一流店から、僕たち「mod’s hair」のようなクリエイションの面白さを前面に出すヘアデザイナーグループが注目される、そんな時代観があったんです。
なぜ田村哲也はフランスに渡ったのか?
―ところで、渡仏には何か目的があったのですか?
田村 聞きたい?率直に言うと、パリで一からやり直そうって思ったんです。結構ね、根がまじめなもので(笑)。日本では出来なかった技術をしっかり学んでみたいなと。パリだったら出直せるかなと思って。今度は技術を体系的にしっかりと学び、「いつかは[フレンチヴォーグ]の表紙やってみたい」なんて夢を抱きながらね。だからサロンワークを基盤としたお店に勤めたかったんですよ。それで2店舗くらい面接行ったんだけど…。
―どうだったんですか?
田村 断られちゃって(笑)。ちょうど「mod’s hair」の仲間にあったのが、その面接の前後だったかな。友達のカメラマンが紹介してくれたのがきっかけでね。僕、東京ではフランス系のサロンで働いていたって言いましたよね。そのとき、奇遇にも「mod’s hair」4人のメンバー全員が、僕がいたお店と同じサロンの出身者だったんですよ。それで、5人で意気投合して、何かやろうってなったんです。ただ、一から技術を学び直したかった僕としては、心のどこかで「また東京と同じこやるのかよ」って、複雑な部分もありましたね。しかも「いつか[フレンチヴォーグ]って思ってた夢も、翌年で実現しちゃうし。本当、いいんだか、悪いんだか(笑)。
―フランスでのクリエイション活動で印象的なエピソードはありますか?
田村 たくさんありますよ。あるとき、クラシックなマーセルウェーブを出そうってなったんです。でもメンバーは誰もつくり方を知らない。それなら教えてくれる人を探そうってなって、近所の小さなサロンを見つけたんです。おじさんが一人で経営しているお店で、そこに行って出来る?って聞いたら「あたぼうよっ」みたいな感じで。その技見てみんなすごーいって感動したのを覚えています。あとUピンで作るウェーブや編み込みなんかもみんな同じような感じで、自分たちのものにしていったんですよ。だから僕たちのデザイン表現に決まったプロセスやノウハウがあるわけじゃないんです。いつも自分たちで探して、それをどうしても知りたかったら、そのための先生呼んできて教わってた。だから先生は、おじさん美容師だったり、時には街のおばちゃんだったりするわけ(笑)。特に僕らは、デザインソースを美容以外のものから取ってきたり、逆に昔の技術をリバイバルさせたりしたから、デザインが新鮮だったんだろうね。

田村哲也が考えるクリエイションの定説
―なるほど。そんなデザインの修羅場をたくさんくぐってきた田村さんだから言える、クリエイションにおける座右の銘を、ずばり一言で教えてください。
田村 そうですね、僕の座右の銘は”Aller plus loin(アレ・プリュ・ロアン)”。”もっとその先へ”という意味のフランス語です。いつもの自分より、さらに一歩先へ行くみたいな。人間、どうしても楽な方に流されちゃうんで、自分を鞭打つ言葉でもあるんですよ。もういいかなって、つい思っちゃうでしょ、みんな。特に長時間になって疲れてきたりすると、この辺でいいっしょって(笑)。
でもちょっと待てよ、まだいけるんじゃないのって、自分自身を叱咤激励する。そんな言葉ですね。通常の合格点で満足せずに、もっと先へと攻める気持ちというか。
―それをクリエイションの現場に置き換えて、具体的に言うと?
田村 例えば、明日、撮影があるとするじゃないですか。当然、それまでにこういうのをやろうって考えますよね。僕の場合、それが思った通りにできただけでは全然ダメなんですよ。その場でハプニングというか、自分が想像しなかった何かが加わって、デザインがさらにその先に昇華した時が最高だなって思うんです。例えば、それはカメラマンが打ち合わせと違うライティングにしたことで、「そうくるなら、自分はこうやろう」ってヘアをつくり直したとき表現できたり、あるいはロケで突然風が吹いて髪が全然違う感じになった時に表現できたりとか。結局、机上のデッサンでは全然思いもつかなかったような事が起こって、自分の想像をはるかに超えたというのが最高だなって。
―なぜ、そういうアプローチにこだわるのでしょう?
田村 自分のイマジネーションには限界がありますからね。「これいいじゃん!」と思っても、せいぜい自分の頭の中だけで考えたことでしかない。いろんな人の刺激を受けて出てきた方が、もっと洗練されたものができると思いませんか?ギイ・ブルタンというカメラマンがいるでしょ。彼なんか、どの撮影でもいつでも集合は朝9時で、撮るのは夕方の5時過ぎ。ちなみに彼は絵画から写真に入った人だけあって、自分で撮りたい画はもう事前にあるんですね。でもそれを再現するだけではダメだってことを知っている。だから彼はハプニングが起きるのを待つわけです。早朝からスタジオに入るのは、実はその為なんです。それで彼はスタイリストにピンクのキャデラックがほしいとか急に難題を投げかけたりする。究極、ピンクのキャデラックはどうでもよくて、そういうハプニングを投げることでクリエイターたちに化学反応を起こさせて、想像以上のクリエイションを生もうとするんです。逆に言えば、こうしたクリエイションは、そこに集う人たちが普段から中身のある仕事のできるプロだからこそ、可能な技でもあるんですよ。だから彼は、どんなに完成度が高くてもアベレージな作品なんかをつくってしまったときは、決まって「今日は、自分で自分のコピーしちゃった」って嘆くわけです。
―一方で最近では、クリエイション活動も時間の効率化をよしとする風潮もありますが。
田村 ニューヨークなんかはそうですね。もう、分刻みのタクシーメーターと同じで、スタジオも何時から何時までって言ったら、それを厳守。遅刻なんて言ったら大変ですよ。一番象徴的だったのが、3パターンのライティングでやる撮影のとき、ライティング変える時間がもったいないから、3つのライティングを3つのスタジオに用意して、モデルさんを移動させては「はい、こっちこっち急いで」って(笑)。本当、クリエイションが生まれる素地がない環境なんだなって。今、東京もそれに近くなってきていますね。確かに、ダラダラ時間かければいいものができるかという議論もありますが、新鮮なクリエイションを生むには、一見、無駄にも見えるハプニングのような余白が必要なのではと、僕は思いますね。
―その余白が新鮮なデザインを生むという。
田村 そうですね。余白を通してデザインが熟成されて、芳醇なものへと高まっていく。その過程において、普段の自分のコピーで終わらない新しい発見がある。だから、ヘアもメイクもスタイリストもカメラマンも、何かを探そう、引っ張り出そうと時間をかけるんです。それは分刻みの仕事では、絶対、出来っこないですよ。来月から、この連載に登場するクリエイターたちも、みんな、そういう大事なことを知っているはずです。何かを生みだすことに貪欲でタフでポジティブ、そして何より、そういう環境を楽しんでいる、エッジの利いたクリエイターたちです。彼らのその辺の空気を読者のみなさんにお届けできたらいいなって思っています。ご期待下さい。
(Shinbiyo jan.2007)