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雀斑 Freckles SKIP SKIP BEN BEN

この街も不眠症に苦しんでいるの?

幼い日の記憶はまるで朧げなロウソクの灯のようで、それでも交差点から家の軒先の窓辺まで聴こえてきた軽快なチャ·チャ·チャのメロディーのことは、いまでもはっきりと覚えている。
不均一に揺らめく音の波が、記憶のなかで交差する。
音楽は台北の夜の空繁重なりあう。
大稲埕(ダーダオチェン)の川沿いを歩けば、那卡西(ながし)特有のキーボードの旋律が聴こえてくる。
熟年のダンサーたちは70年代の歌謡曲を高らかと歌いあげ、ツイストダンスで腰を振っている。
それは、台湾原住民は言うまでもなく、外省人の家庭で育った人も一目見れば思わず笑みがこぼれるような風景。
工業地帯が吐き出す濃い煙が、南の青い空を灰色に染めあげる。
大きな鉄筋を叩く音はさながらサスペンス映画のように絶え間なくこだまし、青い目をした旅行者は俳優顔負けのわざとらしい演技で豚足の味を讃える。
酩酊した男たちは林森北路の酒場でうつつを抜かし、郵政局のビルではおじさん。
おばさんに交じって、子どもたちも高く積まれたハガキの山を手際よく仕分けする。
西洋·東洋の国ぐにが植民地としてきた台湾。
その混沌のなかで、幼い私はアイデンティティ-を顧みることなどなかった。
そんな私の人生が一変してしまった海沿いの街-ゴンリャオ フーロン海水浴場。

あれはただの花火だったのか

2000年に<角頭音楽Taiwan Colors Music)が企画した「貢寮国際海洋音楽祭(ホーハイヤン·ロックフェスティバル)」。
夜空に万雷の花火が打ちあがると、ビーチにいた数千人の観客の大歓声が沸き起こった。
メインイベントは猛暑の砂浜で行われる大規模なバンド·コンテスト。
毎年、このコンテストで優勝を勝ちとった歌手やバンドは、5~20万ドルの賞金に加え、CDリリースのチャンスを獲得することになっていた。
「海辺から成りあがったロックスター」を夢見た私は、授業もそっちのけでこのバンド·コンテストのトーナメント表を一心不乱にノートに書き付けるほど、妄想に耽る日々を過ごしていた。
2001年、淡江高校の音楽サークルに所属していた蘇偉安(スーウェイアン)に出会った。
早熟の天才ギタリストで、サークルメンバーのなかでもひと際異彩を放っていた彼と私はすぐに意気投合した。
当時の私たちが夢中になったのはガレージロックや90年代の渋谷系だった。
ウェイアンは私にソニック· ユースのCDを渡し「この高校でこんな音楽を聴いているのは、きっと僕らだけだよ!」と、興奮を隠しきれない様子で話していたことも覚えている。
ウェイアンの音楽的な教養は彼の兄、蘇偉博(スーウェイポー)からの影響だった。
私は、個人的な創作を形にするために結成したバンド、雀斑Frecklesのメンバーにこの兄弟を誘うことにした。
淡水(ダンシュイ)の古い住区にあったスー兄弟の家には地下室があり、放課後はいつもそこへ行き、ヤマハのアップライト·ピアノで無理やりなスウィングを弾いてみたりした。
当時の私たちには台北のスタジオまで練習に行けるようなお金はなかったから、楽曲のフレーズを地下室で暗記したあと、深夜に同じ住区にあった教会に集まった。
誰もいない闇のなかをおそるおそる歩き、その舞台上で練習した。
教会の吹き抜けがもたらすグランドピアノの反響は、それまで聴いたどんなエフェ
クターの効果よりも美しく響いた。
「もしコンテストで準決勝まで残れなかったら、この苦しみはもう1年続くのね……」
音楽の世界に夢中だった私の成績は酷くなる一方だった。
放課後の時間は「不遇な浪人生」のような不安にかられながらも、作詞作曲に費やした。
大学入試の前夜、一本の電話が鳴った。
それは雀斑Freck.lesがコンテストに入選したという知らせだった。
準決勝の場所は台南の新光三越百貨店の特設ステージ。
日程は卒業式の翌々日の午後。
クラスメートたちが涙の抱擁を交わして記念写真を撮影していたころ、私たちは時速120キロでスクーターを飛ばし、台南へ向かう長距離バスのターミナルに向かっていた。
「不眠症ってこんな感じなのかも」
テレビの白光が瞬く深夜のバスのなか、17歳の私はふと思った。
テレビにはガイ·リッチー監督の映画『スナッチ』が流れていて、不安な心をいくらか慰めてくれた。
バスのなかには、誰かが持ち込んだ肉まんの匂いが立ち込めていた。
誰もいない漆黒の教会、淡水の風も通らない地下室-それがどこであろうと、私たちは音楽祭がもたらした不思議な引力に導かれていたように感じていた。
それまで辿ってきた音楽の道の上にそんな記憶の断片があり、微かなネギの香ばしい匂いだけが、心を縛る鎖をほどくための道筋にさえ思えた。

その後の数年間、雀斑Frecklesは毎月、台北の師大路のライブハウス「地下社会」にレギュラーで出演し、いくつかのバンドと先輩たちに出会った。バイトが終わると疲労困あっても、いつも師大公園か地下社会でやっているライブに行きたくなった。
高校を卒業し、バイトとバンドを掛け持ちする日々が4年ほど続いた。
毎年開催されていた音楽祭のコンテストの結果はすべて落選だったけど、転機はその翌
年に訪れた。
2 0 0 7年の夏、雀斑Frecklesは第7回海洋音楽祭コンテスト決勝で準優勝を獲得した。
決勝当日、私は袋いっぱいの缶ビールを手にビーチを歩き回っていた。
出番を迎えた夕方、泥酔状態の私はゲラゲラと笑いながら、人生でもっとも大きなステージに立っていた。
ようやく、待ちに望んだ決勝の舞台に立つことができた瞬間だった。
この日の私が記憶している最後の光景は、現在の台湾インディー史における伝説的バンド、濁水溪公社LTK Communeのボーカルの小柯が金色のトロフィーを受け取りに走るシャオコーだった。
すべての終わりは、追い求めたセックスのあとに訪れる、ブラックホールのような虚無を思わせた。

路上の狂騒 私は幽霊のように

私の青春は終わりを迎えた。
バンドは次第にバラバラになり、2008年に解散した。
その1カ月後、いまは落日飛車Sunset Rollercoaster、森林Forestsとして活躍しているメンバーたちとBOYZ&GIRLというバンドを結成した。
ライブの売れ行きはよく、ブッキングも引く手数多だったが、心が安らぐはずの夜のひとときも生きる意味を見つけられずにいた。
募る憂鬱から慢性的な不眠症を引き起こし、仕事と人間関係の何もかもがうっとおしく感じた。

2010年、上海から中国ツアーの誘いがあった。
初めて踏み入れた大陸の地は私の視野を大きく広げた。
そびえ立つ高層ビル群と人びとの営みが栄える路地が、時空を超えたコントラストを生みだしていた。
路上で繰り広げられる会話に耳を傾けた。悪意と聞きわけがつかない冗談、あるいは真正面からの衝突、ありとあらゆる状況をまえに、長らく麻痺していた感覚が冴え渡っていくのを感じた。
それまでに感じたことがないような安心感が生まれ、心のなかのすべてに答えが現れたように思えた。
私は周囲の反対も省みず、最初の中国ツアーから半年も経たぬうちに北京へ居を移した。
毎週火曜は五道口の学生街近くにあるライブハウス「D-22」のノイズイベント「燥眠夜Zooming Night」に欠かさず通い、それまで聴いてきた音楽に対する認識を新たにした。
2 0 1 2年にはCarsick Carsにドラマーとして加入し、それから「SKIP SKIP BEN BEN」名義でアルバム『山丘之祭』もリリースした。
中国各地で、それまで見たこともなかったようなクレイジーなツアーを経験した。
台湾ではクレイジーな表現をしようものなら、本当に気が狂ってしまったと思われかねない。
中国の生活は至るところに「瘋狂(狂気)」があり、どんなホラ話も道理にかなっているように思えた。
台湾と中国の政治的歴史、文化の巨大な溝に直面し自問自答と挫折を繰り返す日々の中で、台湾の親友が投げかける「投共」の視線、その無言の批判にやりきれない思いを抱いた。
その-方で、「台湾は中国の一部」と公言する世界の上に漂う私は、感情の奥底ではこの国の在り方を受け入れられなかった。
中国社会に飛び込み人びとに貢献したいと思っても、自分のアイデンティティ-は依然見つからないまま。
作った音楽を繰り返し聴いてみても、「本質」と言えるものが私に欠けているのは明らかだった。
そんな自分の無力感に失望し、2 0 1 4年12月のあるひっそりと台湾に戻ることを決心した。

花を供えるものは誰もいない

ネットに接続し、透明雑誌が2010年にリリースしたルバムのなかの一曲「師大公園地下司令」にある「また夜明ける……」という意味深な一節に耳を傾ける。
今年で師大路にあった地下社会が閉業して5年が経つ。
師大公園の周りはこだわりが効いた音楽が流れるカフェやレストランが軒を
連ね、希少動物のようなライフスタイルの少年少女が寄り集まる-そんな景色は、2012年の住民抗議と警察のたび重なる取締りの末に、ドミノ倒しのように消えてしまった。
地下社会が閉業したあとも、思いがけず師大公園のベンチに座ることがあった。
風に揺れるシャツを思わせるピーナツツ豆花を啜り、道を挟んだ向かいの地下社会から漏れ聞こえたギターのフィードバックを思いだした。
Carsik Carsのライブのあと、公園の野良猫を虐めていた外国人を友だちと一緒にたしなめ、口論になったのをきっかけに大勢の警察がやってきた、あの夜。
職務質問に悪びれもせず「私たちは音楽家だ!」と言い放った、あの夜。
師大公園を通り過ぎるたびに目にした、広場の石のベンチとテーブルはまるで自分の暮石のように見えた。
「自由になりたい幽霊」は台湾を離れた。
人生でもっとも刺激を与えてくれた土地であっても、結局は、たとえ幽霊として生きたとしても、無数の別れとは切っても切れぬ縁なのだと悟った。
命のなかに不可逆的に存在する死を経験し、巡る季節に思いを馳せ慰めることはできても、その「死」を称えることは許されない。
鼓膜に残る、銃声の巨大な残響音。
そんなことを考えると、強迫女孩OCD GIRLのフロントマン、黄雨晴の歌声がこだました。

あなたは哀れな人 ここはあなたの街
真っ白な家々とものしずかな住人たち
わたしは恥ずべき人 この街に住んでいる
善良な心を宿した透明な人々
この街にパンクはない この街にパンクはない
この街にパンクはない この街にパンクはない

家に戻り、師大公園のベンチより柔らかいソファに身を沈ビールを飲む。
拝啓、美しき敗者たち。
幽霊のごとく生きる私はまた、こうして「台北夜未眠」のプレイリストを編んでいる。