ジャン=リュック・ゴダール  Jean-Luc Godard




映画の権利ばかり言われ、映画の義務が省みられていないからだ。
映画には絵画や文字に与えられているような役割を与えられていないし、その方法も分からないし、それが望まれてもいない。
映画は自分の義務を果たす術を知らなかったんだ。
自分を欺くための道具になってしまっている。
最初のうちは、映画は知覚の新たな道具、微小な事物の観察器具、遠方の事物の観察器具とみなされたが、すぐに、その機能が妨げられ、おもちゃ扱いされるようになった。
映画は思考の道具としての役割を果たさなかった。
映画は世界を見る唯一の方法であると同時に、大勢の観客の前で、また同時に福数の場所で、大きな画面に映し出すことができる個々のヴィジョンでもあったからだ。
でも、すぐに映画は庶民の間で大当たりするようになったので、その見世物的な側面が重視された。
実際には、そうした見世物的な側面は映画の機能の10ないしは一五%を占めるに過ぎない。
それは資本家の利益を代表するものでしかなかったはずだ。
たちまち、映画は人々の利益を得るためにのみ利用されることになり、資本としての役割しか果たさなかった。
人々は道を誤ったんだ。
〉その分かれ目は、いつ生じたのですか?
ほぼ最初からだね。
MGMのトップにタルバーグが就任してからだ。
特にヨーロッパには、そうしたやり方に反対する人間は大勢いたが、力がなかったんだ。
それに結局、映画はその機能十分に発揮しなかった。
文学において最良のものでディケンズ、最悪のものでシュリツェールの小説しかなかったとしよう。
シェリツェールはディケンズに太刀打ちできなかった。
映画に当てはめれば、結局、シェリツェールをディケンズに見せかけているんだ。
現代の映画は見ることを助けるのではなく、見世物を提供するんだ。
〉あなたは自分の作品で流れを逆転させようとしているのですか?
無邪気な人々は、ヌーヴェール・ヴァーグが出発点であり、革命だったと思い込んでいる。
ところが、それは既に遅すぎたんだ。
全ては終わっていた。
強制収容所の映画が撮れなかったと時点で完成されたんだ。
その時、映画はその義務を完全におろそかにしていた。
六百万人の人々、主にユダヤ人が毒ガスなどで殺されたが、そこに映画はなかった。
しかし、「チャップリンの独裁者」から「ゲームの規則」に至る映画は、その悲劇の全てを告発している。
強制収容所を撮らなかったことにより、映画は全く機能しえなかった。